人格は、育てられるのか

――教えることと、育つことのあいだ

 前回の「人格とは、『いい人』であることなのか」では、人格を、性格のよしあしや人当たりのよさではなく、その人が自由をどのように使い、何に責任を負い、何を選び続けるのかという「在り方」として考えた。

 だとすれば、次の問いが生まれる。

 人格は、育てることができるのだろうか。

 学校では道徳を教える。家庭では、してよいことと悪いことを教える。会社では、理念や行動規範を示す。私たちはさまざまな場所で、「こうあるべきだ」ということを人に伝えている。

 しかし、正しいことを知っていることと、実際にそれを選ぶことは同じではない。

 もし人格が、その人自身の選択に現れるものなら、誰かが外から「正しい人格」を教え込むことは、そもそも可能なのだろうか。

正しいことを教えれば、人格は育つのか

 「嘘をついてはいけない」「人に迷惑をかけてはいけない」「約束は守らなければならない」。こうしたことを知らない大人は、ほとんどいないだろう。

 それでも、人は嘘をつく。約束を破る。自分の失敗を誰かの責任にすることもある。

 つまり、正しいことについての知識が、そのまま人格になるわけではない。

 誰かに見られているからルールを守る。怒られるから言われたとおりにする。評価を下げられたくないから従う。それによって望ましい行動が生まれることはある。しかし、監視する人がいなくなったときにも同じ行動を選ぶとは限らない。

 前回考えた人格が、自由を与えられたときに何を選ぶかに現れるものだとすれば、命令に従っているだけでは、その人自身の人格が表れたとは言い切れない。

 人格は、正解を覚えることとは違う。

 では、何によって育つのだろうか。

人格は、経験の中で形づくられる

 振り返ってみると、私自身も、「責任を持て」と教えられたから責任について考えるようになったわけではない。

 仕事を任された。自分で考えた。失敗した。もう一度考えた。自分の判断の結果が、自分だけでなく周囲にも影響することを知った。そうした経験の積み重ねの中で、少しずつ仕事に対する考え方が変わっていったように思う。

 私が尊敬していた社長も、「こういう人格者になれ」と私に教えたわけではなかった。むしろ、やりたいことをやらせ、挑戦を応援してくれた。その自由を与えられたことで、私は逆に「この人のために頑張ろう」と思った。

 教えられたというより、経験したのである。

 スティーブン・R・コヴィーは『7つの習慣』で、習慣が知識だけから生まれるのではなく、何を、なぜ行うのかという知識、どう行うのかというスキル、そしてそれをしたいという意欲が重なって形成されると考えている。

 人格についても、似たことが言えるのではないだろうか。

 責任とは何かを知るだけでは足りない。実際に何かを任され、選び、その結果を受け止める。その経験を繰り返す中で、知っていた言葉が、自分自身の在り方へと少しずつ変わっていく。

 ただし、ここで一つ注意しなければならない。

 経験すれば、人は必ず成長するのだろうか。

失敗すれば、人は成長するのか

 「失敗は人を成長させる」とよく言われる。

 だが、これも自動的に起こることではないだろう。

 同じ失敗をしても、「あいつのせいだ」と考えることもできる。「運が悪かった」で終えることもできる。自分には何の責任もなかったことにして、同じことを繰り返すこともできる。

 反対に、何が起きたのかを振り返り、自分の判断のどこに問題があったのかを考え、次はどうするのかを決めることもできる。

 失敗そのものが人格を育てるのではない。

 経験をどう受け止め、そこから何を考え、次に何を選ぶのか。その過程が重要なのだと思う。

 経験する。振り返る。そして、もう一度選ぶ。

 この循環を繰り返すことで、その人の在り方は少しずつ形づくられていく。

 だとすれば、人を成長させようとして、ただ多くの経験を与えればよいという話でもない。経験から考える余地がなければ、それは単なる出来事の繰り返しになってしまう。

人を変えようとすると、人は変わらなくなる

 さらに難しい問題がある。

 「人格を育てたい」と考えた瞬間、育てる側には、相手を自分の望む人間に変えようとする誘惑が生まれる。

 親なら「こういう子になってほしい」と思う。教師なら「こういう生徒になってほしい」と思う。上司なら「もっと主体的な部下になってほしい」と思う。

 その願い自体が悪いわけではない。しかし、「主体的になれ」と命令されて主体的になるというのは、どこか奇妙である。

 エドワード・デシとリチャード・フラストは、人が持続的に変わるためには、外から変えられるのではなく、本人がその変化を自ら認め、自分で変わろうと決意することが重要だと考えている。

 ここには、人格を育てることの難しさがよく表れている。

 誰かに責任ある人間になってほしいからといって、その人から選択する自由を奪えば、責任を学ぶ機会まで奪ってしまうかもしれない。

 人を正しい方向へ導こうとして、すべてを決めてしまう。失敗させないために先回りする。間違えないように細かく指示する。それによって短期的には失敗を減らせても、自分で考え、選び、その結果を引き受ける力まで育つとは限らない。

 人格を育てようとして、人の主体性を奪う。

 そこには、一つの逆説がある。

自由にすれば、人格は育つのか

 では、何も言わず、好きなようにさせればよいのだろうか。

 それも違う。

 この連載では、すでに「自由にすれば、人は本当に自ら動くのか」と問い、自由と放任は同じではないと考えた。人格形成についても同じ問題が現れる。

 デシたちが重視する自律性の支援も、「何をしてもよい」という意味ではない。むしろ、相手を一人の主体として尊重しながら、必要な境界を示し、その理由を説明し、その範囲の中で選択する機会を与えることが重要になる。責任感を育てるためにも、制限そのものではなく、その設け方が問題になる。

 自由だけでは、責任は学べない。

 責任だけを求めて、自由を与えなくても学べない。

 必要なのは、責任を伴う自由なのだと思う。

 自分で考えられる余地がある。選ぶことができる。選んだ結果が返ってくる。失敗しても、もう一度考えることができる。必要なときには助けを求められる。そして、自分の選択について振り返る機会がある。

 そのような環境の中で、人は少しずつ「自分はどうするのか」を考えるようになるのではないだろうか。

人格を育てることは、人格をつくることではない

 ここまで考えると、「人格を育てる」という言葉そのものにも注意が必要になる。

 植物を育てることはできても、伸びることそのものを外から代わってやることはできない。それと少し似ている。

 本人に代わって失敗することはできない。本人に代わって考えることも、選ぶことも、責任を引き受けることもできない。

 デシたちは、自己の発達には社会が大きな影響を与える一方で、社会が一方的にその人をつくるのではなく、本人自身が能動的な役割を果たすと考えている。

 この考えは、人格について考えるうえでも重要だと思う。

 人格は、他人がつくるものではない。

 しかし、一人でつくられるものでもない。

 人は、他者との関係の中で経験する。誰かから信頼される。任される。叱られる。許される。失敗する。助けられる。誰かの行動を見て、「自分もああなりたい」と思うこともあれば、「自分はああはなりたくない」と思うこともある。

 そうした経験の中で考え、選び続けるのは、最後には本人である。

 だから、人格を育てるとは、望ましい人格を外から注入することではない。その人自身が、自分の在り方をつくっていける条件を整えることなのではないだろうか。

育てる側も、見られている

 そして、ここにはもう一つ厄介な問題がある。

 人格について何を教えるかよりも、教える側がどう行動しているかのほうが、はるかに強い影響を与えることがある。

 「自分で考えなさい」と言いながら、答えが違えば怒る。「失敗を恐れるな」と言いながら、失敗した人を責める。「人を尊重しなさい」と言いながら、自分より立場の弱い人をぞんざいに扱う。

 子どもも、部下も、言葉だけを聞いているわけではない。

 人は、育てる側の選択を見ている。

 デシたちも、教師や親、管理職が他者の自律性を支えるためには、その人自身を支える環境も重要だと指摘している。

 人格形成は、育てられる側だけの問題ではない。

 人を育てようとする人もまた、自分がどのように権限を使い、失敗にどう向き合い、他者をどう扱うのかを問われている。

 そう考えると、教育とは一方向の行為ではなくなる。

 人を育てながら、自分自身もまた問われるのである。

人格は、育てられるのか

 最初の問いに戻ろう。

 人格は、育てられるのだろうか。

 私は、「育てられる」とも「育てられない」とも思う。

 他人が望む人格を、その人の内側へ直接つくることはできない。正しい言葉を教え、正しい行動を命じても、それだけでその人自身の人格になるわけではない。

 しかし、人が育つ条件をつくることはできる。

 考える機会をつくる。選ぶ余地を残す。責任を与える。失敗の結果から学べるようにする。対話する。振り返る。そして、育てる側自身が、自らの行動によって一つの在り方を示す。

 人格は、そのような環境の中で、本人が何度も選ぶことによって形づくられていくのではないだろうか。

 前回、人格を「何を選び続けるか」として考えた。

 だとすれば、人格を育てるとは、正しい答えを覚えさせることではなく、自分で考え、選び、その結果に責任を負う経験を重ねられるようにすることなのかもしれない。

 ここまで来ると、人格の問題は、そのまま教育の問題へつながっていく。

 私たちは学校で多くの知識を学ぶ。知識は必要である。読み、書き、計算し、科学や歴史を知らなければ、自由に考えるための材料すら持つことができない。

 しかし、もし教育が、人が社会の中で自由と責任を引き受けながら生きていくための営みでもあるとすれば、知識を教えるだけで、その役割を果たしたと言えるのだろうか。

 教育とは、そもそも何のためにあるのだろう。

 次に考えたいのは、この問いである。

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参考文献

スティーブン・R・コヴィー『完訳 7つの習慣(普及版)』フランクリン・コヴィー・ジャパン訳、FCEパブリッシング、2020年。

エドワード・L・デシ、リチャード・フラスト『人を伸ばす力――内発と自立のすすめ』桜井茂男監訳、新曜社、1999年。

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