国家の成果とは、何か

――経済の大きさと、人が力を発揮できる社会のあいだ

 前回の「国家は、何のためにあるのか」では、国家とは、人の人生を決めるためではなく、人が自分の人生を選べる共通の条件を整えるためにあるのではないか、と考えた。互いの自由を守るためのルールをつくる。一人では支えられない共通の基盤を支える。生まれた環境だけで可能性が決まらないための土台をつくる。そして、その上で何を考え、何をつくり、どのように生きるのかは、人と社会に返していく。

 では、そのような国家がうまく機能しているかどうかを、私たちは何によって判断すればよいのだろう。経済が成長していることか。所得が増えていることか。安全であることか。人々が幸福だと感じていることか。それとも、人が自分の力を社会の中で発揮できることなのか。

 目的を考えたなら、次には成果を考えなければならない。

測らなければ、成果はわからない

 会社でも、目標を掲げるだけでは仕事は終わらない。売上、利益、顧客数、品質、納期など、実際に何が起きたのかを確かめる必要がある。国家も同じである。どれほど立派な理念を掲げても、それだけで「よい国になった」と言うことはできない。理念によって、社会に何が起きたのかを見なければならない。

 だから、数字は必要である。しかし、数字には一つ厄介なところがある。数字は現実の一部を見えるようにするが、見えるようになった数字そのものが、いつの間にか目的になることがある。会社が顧客のために仕事をしていたはずなのに、売上目標を達成することそのものが仕事になる。学ぶために試験があったはずなのに、試験で点を取るために学ぶようになる。

 国家についても同じことが起こり得る。何を測るかは重要である。しかし、それ以上に重要なのは、その数字によって何を知ろうとしているのかである。

GDPが増えれば、国家は成功なのか

 国家の状態を考えるとき、経済は避けて通れない。人が生活するには食べ物がいる。住む場所がいる。医療や教育にも資源が必要である。企業が価値を生み、働く人に所得が生まれ、税収が生まれるからこそ、社会全体で支えられるものも増えていく。

 したがって、経済の大きさや成長を軽視することはできない。GDPは、一定期間に社会の中で生み出された経済的な価値を見るための重要な指標である。

 しかし、経済活動の大きさと、国家の成果は同じなのだろうか。

 GDPが増えていても、その恩恵が一部に偏り、多くの人の生活が良くなっていなければ、社会を見るには別の視点が必要になる。現在の経済活動が拡大していても、それによって将来世代へ大きな負担を残しているなら、現在の数字だけで成功とは言い切れない。一方で、家族を支えること、子どもを育てること、地域で誰かを助けることなど、人間の生活にとって重要であっても、市場で取引されなければ経済の数字には十分に現れにくい活動もある。

 GDPは重要である。しかし、重要な指標であることと、それを国家の目的そのものにすることは違う。

では、幸福ならどうか

 経済だけでは足りないのなら、国民の幸福を国家の成果にすればよいという考え方もある。経済は人間のためにあるのだから、その人間が幸福でなければ意味がない。この考えには大きな説得力がある。

 しかし、ここで前回考えた問題が戻ってくる。幸福とは何だろう。

 仕事に没頭することに幸福を感じる人がいる。家族との時間を最も大切にする人がいる。社会的な成功を求める人もいれば、静かな暮らしを望む人もいる。何かを創造することに人生を使いたい人もいる。幸福の形は、一つではない。

 だから、国家が一つの幸福像を決めることはできない。そして、本人が「幸福です」と答えたかどうかだけで、社会の状態をすべて判断することにも無理がある。選択肢をほとんど知らない状態でも、人は現在の生活に満足することがある。反対に、大きな自由と可能性を持ちながら、より高いものを求めるために現状へ不満を持つ人もいる。

 国家は、人を直接幸福にすることはできない。しかし、人が自分なりの幸福を追求できる条件を整えることはできる。

安全なら、それでよいのか

 安全もまた、国家の重要な成果である。安心して暮らせることは、自由に生きるための基本的な条件だからだ。暴力や犯罪を恐れながら暮らす社会で、自分の可能性を十分に追求することは難しい。治安や防災、国の安全を守ることは、国家が引き受けなければならない重要な仕事である。

 しかし、安全だけを最大化しようとすれば、別の問題が生まれる。人の行動を細かく監視し、危険につながりそうな行為をあらかじめ禁止し、失敗する可能性のある挑戦をさせなければ、安全は高まるかもしれない。

 その社会を、自由な社会と呼べるだろうか。

 自由には、不確実さが伴う。新しい事業を始めれば失敗することがある。未知の研究に挑めば成果が出ないこともある。異なる意見を自由に言える社会では、耳の痛い言葉を聞くこともある。

 すべての危険をなくすことと、人が安心して挑戦できることは同じではない。経済も、幸福も、安全も重要である。しかし、どれか一つだけを最大化すれば、国家の成果を捉えられるわけではない。

国家の成果は、どこに現れるのか

 ドラッカーは、組織の成果は組織の外部にあると考えた。会社であれば、社内の会議を何時間したかが成果ではない。書類を何枚作ったかでもない。商品やサービスを通じて、顧客や社会にどのような価値を生み出したのかが問われる。

 この考えを国家へ置いてみると、見方が変わる。法律を何本つくったか。予算をいくら使ったか。新しい制度を何個つくったか。行政がどれだけ多くの仕事をしたか。それらは必要な活動ではあっても、それだけで成果とは言えない。

 問うべきなのは、その結果として社会に何が起きたかである。安心して生活できるか。必要な教育を受けられるか。働こうとする人が自分の力を使えるか。新しいことへ挑戦できるか。異なる考えを持つ人同士が共存できるか。失敗した人が、もう一度やり直せるか。そして、企業、学校、大学、地域などのさまざまな組織が、それぞれの目的を果たしながら社会に価値を生み出せるか。

 国家自身がどれだけ多くの仕事をしたかではない。

 人と社会が、どれだけ自ら仕事をできるようになったか。

 そこに、国家の成果を見るべきなのではないだろうか。

人が力を発揮することは、国家の成果なのか

 この連載では、最初から人の力について考えてきた。人を動かそうとすると、かえって人は動かなくなることがある。自由だけでも足りない。強みは、その人だけを見てもわからず、仕事や環境との関係の中で現れる。そして人は、自分の能力と挑戦がかみ合い、意味を感じられるとき、深く仕事に没頭することがある。

 これまで考えてきたことを国家へ広げれば、一つの見方が生まれる。

 社会には、膨大な力が存在している。研究する人がいる。ものをつくる人がいる。人を育てる人がいる。病気を治す人がいる。会社をつくる人がいる。芸術を生み出す人がいる。家族を支える人がいる。地域を守る人がいる。その一人ひとりが、同じように生きる必要はない。

 重要なのは、それぞれの人が自分の力の使い方を見つけ、それを他者や社会のために使えることである。

 人の強みが使われず、挑戦しようとする人が諦め、能力のある人が自分の力を社会へ結びつけられない。その状態で経済指標だけが良くなったとしても、私は国家のマネジメントが十分に成功しているとは考えない。

 人の力が社会の成果へ結びついていること。それは、国家が整えるべき条件が機能している重要な証拠の一つである。

一つの数字に、国家を閉じ込めない

 だからといって、新しい一つの「国家成果指数」をつくれば問題が解決するとも思わない。経済、安全、健康、教育、自由、環境、人と人とのつながり。人間の生活には複数の側面がある。それらを一つの数字に押し込めれば、結局また、その数字だけを追いかけることになりかねない。

 必要なのは、完璧な一つの指標ではなく、目的と数字の関係を問い続けることではないだろうか。

 数字は、現実を見るために使う。

 現実を、数字に合わせるために使うのではない。

 経済が成長している。それは重要である。では、その成長によって人の選択肢は広がったのか。安全になった。それも重要である。では、そのために失われた自由はないのか。教育に多くの資源を使った。では、人は自分で考えられるようになったのか。

 数字を見るたびに、その数字の向こう側にいる人間へ戻る。国家のマネジメントには、その姿勢が必要なのだと思う。

国家の成果を考える

 ここまで考えてくると、国家の成果を国家そのものの大きさで測ることには意味がないことがわかる。

 経済を豊かにすることは必要である。安全を守ることも必要である。教育、医療、社会の基盤を整えることも必要である。しかし、それらは、それ自体のためにあるのではない。

 その結果として、人が自分で考え、自分で選び、自分の強みを使いながら、他者とともに社会に価値を生み出せること。そして、その可能性が一部の人だけでなく、次の世代にも開かれていること。

 私は、そこに国家の成果を見る。

 国家が成長するために、人がいるのではない。

 人と社会が成長できるように、国家という仕組みがある。

 だから国家の成果を考えるときも、国家の内側ではなく、人々が実際に生きている社会を見なければならない。

 すると、もう一つ避けられない問題が出てくる。何を成果とするかを決めるためには、「どのような社会を目指すのか」という未来の姿が必要になる。

 経済をどこまで重視するのか。自由と安全をどう両立させるのか。何を次の世代へ残したいのか。成果を決めるには、進む方向が必要である。

 次に考えたいのは、「国家には、ビジョンが必要なのか」という問いである。

この記事の問いを、自分の問題として考えてみませんか。

Socrackerは、少数の問いとマネジメントの視点から、あなた自身が考え、判断するための材料を返す対話型AIです。

参考文献

P.F.ドラッカー『マネジメント【エッセンシャル版】―基本と原則』上田惇生編訳、ダイヤモンド社。

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