国家は、何のためにあるのか

――人を支配することと、自由を支えることのあいだ

 前回の「教育は、誰が決めるのか」では、国家には誰もが学べる機会と共通の土台を保障する役割がある一方、何を考え、どのような人生を生きるのかまで国家が決めるべきではない、と考えた。

 国家は、本人に代わって自由を選ぶことはできない。しかし、人が自由に選べる条件をつくることはできる。

 そこまで考えたところで、教育よりも大きな問いが残った。

 そもそも、国家は何のためにあるのだろう。

 私たちは生まれたときから、何らかの国家の中で生きている。法律があり、税金があり、学校があり、道路があり、警察や消防がある。あまりにも当たり前に存在しているため、国家そのものの目的を考える機会は意外に少ない。

 国家は、国民を管理するためにあるのだろうか。国を豊かにするためなのか。人を幸福にするためなのか。それとも、個人の自由を守るためなのか。

 国家という巨大な仕組みも、目的を失えば自己目的化する。だからこそ、何をするべきかを考える前に、何のために存在するのかを問わなければならない。

国家がなければ、もっと自由なのか

 国家が個人の行動を制限することは確かにある。法律によって、してよいことと、してはいけないことが決められる。税金も、自分で使えるお金の一部を社会へ差し出すことを求める仕組みである。

 それなら、国家の力が弱ければ弱いほど、人は自由になるのだろうか。

 ここで、自由を一人だけの問題として考えることはできない。

 自分には好きなように行動する自由がある。しかし、隣にいる人にも同じ自由がある。私の自由が相手の生命や財産を脅かすところまで広がれば、今度は相手の自由が失われる。

 道路をどちら側から走るかを全員の自由にすれば、自由が増えるどころか、安心して道路を使う自由そのものが失われる。契約を守るかどうかを完全に本人任せにすれば、知らない相手と安心して取引することが難しくなる。暴力を止める共通の仕組みがなければ、力の強い者の自由が、弱い者の自由を奪う。

 共通のルールは、自由を制限する。

 しかし同時に、共通のルールがあるからこそ可能になる自由もある。

 自由を守るとは、何も決めないことではない。互いの自由が両立できる条件をつくることでもある。

国家は、社会そのものなのか

 ここで、もう一つ区別しておきたいことがある。

 国家と社会は同じではない。

 社会には、家庭がある。会社がある。学校がある。地域がある。病院がある。大学がある。宗教団体やNPOがあり、友人同士のつながりもある。さらに、一人ひとりの個人がいる。

 国家は、それらすべてを包み込む一つの巨大組織というより、多様な人や組織が共存するための共通の仕組みとして考えた方がよいのではないか。

 国家が社会のすべてを引き受ければ、国家の力は強くなる。その代わり、家庭や地域や企業や個人が自分で考え、行動する余地は小さくなる。

 しかし反対に、「自由なのだから、それぞれが勝手にやればよい」と国家が何も引き受けなければ、個人や一つの組織だけでは解決できない問題が残る。災害への備え、社会の基盤となる施設、治安、教育の機会など、社会全体で支えなければ成り立ちにくいものがある。

 国家がすべてをすることにも問題がある。

 国家が何もしないことにも問題がある。

 問うべきなのは、国家か個人かではない。何を共同で支え、何を個人や多様な組織に委ねるのかである。

自由とは、放っておかれることだけなのか

 これまでの連載では、自由について何度も考えてきた。

 「自由にすれば、人は本当に自ら動くのか」では、自由と放任は同じではないと考えた。「教育は、何のためにあるのか」では、世界を知らなければ、自分の人生を自由に選ぶことも難しいと考えた。

 国家についても同じ問題がある。

 誰にも邪魔されなければ、それだけで自由なのだろうか。

 たとえば、法律上は誰でも学びたいものを学べるとしても、読み書きを学ぶ機会そのものを得られなければ、選べる世界は狭い。職業を自由に選べるとしても、自分にどのような可能性があるのかを知る機会がなければ、自由は形だけのものになり得る。

 一方で、国家が「あなたにはこの人生がよい」と判断し、教育も仕事も生き方も用意してしまえば、今度は本人が選ぶ余地がなくなる。

 ここでも必要なのは、統制か放任かという二者択一ではない。

 人が自分で選べる条件を整え、その条件の上で何を選ぶのかは本人に残す。

 教育について考えてきた原理は、そのまま国家にもつながっている。

国家は、人を幸福にするためにあるのか

 「国民を幸福にする国家」という言葉には、魅力がある。

 しかし、この言葉には少し注意が必要だと思う。

 幸福とは何だろう。

 仕事で大きな成果を上げることを幸福と考える人もいる。家族との時間を大切にしたい人もいる。研究に没頭したい人もいれば、静かに暮らしたい人もいる。社会を変えることに人生を使う人もいれば、自分の身近な人を大切にして生きる人もいる。

 どれが正しい幸福なのかを、国家が一つに決めることはできない。

 もし国家が「これが国民の幸福である」と一つの完成形を持ち始めれば、人を幸福にしようとする善意が、人をその型へ近づける統制に変わることがある。

 これは人格について考えたときと同じである。

 人格を直接つくるのではなく、人が自らの人格を育てていける条件をつくる。

 人を直接幸福にするのではなく、人が自分なりの幸福を追求できる条件をつくる。

 国家の仕事も、そこにあるのではないだろうか。

国家は、企業と同じ組織なのか

 私はこれまで、国家にもマネジメントが必要だと考えてきた。

 ただし、国家を企業とまったく同じものとして扱うつもりはない。

 会社が気に入らなければ、少なくとも制度上は辞めることができる。商品が気に入らなければ、別の会社の商品を選ぶこともできる。しかし、国家との関係はそれほど簡単ではない。

 国家には法律をつくり、税を徴収し、必要な場合には個人の行動を強制的に制限する力がある。

 だからこそ、国家にマネジメントの考え方を適用するときには、企業以上に「何のための権限なのか」を問わなければならない。

 権限があるから使うのではない。

 目的を実現するために必要だから、権限が与えられている。

 この順番が逆になれば、組織は自分を守るために権限を使い始める。

 ドラッカーは、組織は目的ではなく手段であると考えた。この原則を国家へ広げれば、国家という仕組みを維持すること自体が国家の目的ではないことになる。

 省庁を維持することも、予算を使い切ることも、法律を増やすことも、それ自体は成果ではない。

 国家の成果は、国家の内部にはない。

 社会の中に現れる。

国家の外部には、何があるのか

 企業であれば、成果は顧客や社会の側に現れる。では、国家の場合はどうだろう。

 国家の外に国民がいる、という意味ではない。国民は国家を構成する当事者でもある。

 ここでいう「外部」とは、行政組織や政治制度の内側ではなく、人々が実際に生きている社会の側という意味である。

 人が安心して暮らせるか。学びたい人が学べるか。働きたい人が力を発揮できるか。新しいことを試せるか。異なる考えを持つ人が共存できるか。困難に直面した人が、もう一度立ち上がる可能性を持てるか。

 企業、学校、地域、研究機関など、多様な組織がそれぞれの目的を果たせるか。そして、それらの活動が社会の新しい価値へ結びついていくか。

 国家を見るとき、本来問うべきなのは、制度がどれほど立派かではなく、その制度のもとで社会がどう動いているかなのだと思う。

 国家という組織の内側が整っていても、人が力を発揮できず、社会が停滞しているのであれば、マネジメントとして何かを問い直す必要がある。

国家の役割は、人を動かすことなのか

 この連載の最初に、「人を動かそうとすると、人は動かなくなる」と書いた。

 人を直接動かすのではなく、人が自ら動ける条件を整える。それが、ここまで考えてきたマネジメントの基本だった。

 国家についても、この原則は変わらない。

 国民を思いどおりに動かせる国家が、優れた国家なのではない。

 人々が自分で考え、自分で選び、自分の強みを使い、他者の自由を尊重しながら社会に貢献できる。そのための共通の条件を整えられる国家が、よくマネジメントされた国家なのだと思う。

 国家は、社会の主人ではない。

 国家は、社会が機能するための仕組みである。

 そして社会とは、国家だけでできているのではない。そこには個人がいて、家庭があり、企業があり、学校があり、地域があり、無数の組織と関係がある。

 国家を一つの巨大な機械として見るよりも、多様な人と組織が互いに影響しながら生きる社会生態系を支える仕組みとして見る。

 そう考えた方が、これまで扱ってきた自由、強み、人格、教育、マネジメントという問題も、一つにつながってくる。

国家は、何のためにあるのか

 最初の問いに戻ろう。

 国家は、何のためにあるのだろうか。

 私は、国家とは、人の人生を決めるためにあるのではなく、人が自分の人生を選べる共通の条件を整えるためにあると考える。

 互いの自由を守るためのルールをつくる。一人では支えられない共通の基盤を支える。生まれた環境だけで可能性が決まらないための土台をつくる。そして、その上で何を考え、何をつくり、どのように生きるのかは、人と社会に返していく。

 自由には責任が伴う。

 国家にも同じことが言える。

 大きな権限を持つということは、それだけ大きな責任を引き受けるということである。その権限は、国家自身のためではなく、人と社会が力を発揮するために使われなければならない。

 国家の仕事は、人を支配することではない。

 人が自由に生きられる社会を支えることである。

 しかし、ここで次の問題が残る。

 国家が人と社会のために存在するのだとすれば、その国家がうまく機能しているかどうかを、私たちは何によって判断すればよいのだろう。

 経済が成長していることか。所得が増えることか。安全であることか。幸福であることか。人が自分の力を社会の中で発揮できることか。

 目的を考えれば、次には成果を問わなければならない。

 次に考えたいのは、「国家の成果とは、何か」という問いである。

この記事の問いを、自分の問題として考えてみませんか。

Socrackerは、少数の問いとマネジメントの視点から、あなた自身が考え、判断するための材料を返す対話型AIです。

参考文献

日本国憲法。

P.F.ドラッカー『マネジメント【エッセンシャル版】―基本と原則』上田惇生編訳、ダイヤモンド社。

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