――知識を教えることと、自分で考える力を育てることのあいだ
前回の「人格は、育てられるのか」では、人格は誰かが外からつくるものではないが、一人でつくられるものでもない、と考えた。人は、正しい答えを与えられるだけで成長するのではない。考え、選び、その結果を受け止め、もう一度考える。そうした経験を重ねる中で、自分の在り方を少しずつ形づくっていく。
だとすれば、そのような成長を社会の中で支える営みとは何だろう。
そこで避けて通れないのが、教育である。
私たちは長い時間を教育に使う。読み書きを学び、計算を学び、歴史や科学を学ぶ。試験を受け、成績がつき、その結果によって進学先が決まることもある。それぞれに意味がある。
しかし、ここで一度、もっと根本的なところへ戻ってみたい。
教育とは、そもそも何のためにあるのだろうか。
正解を覚えることは、学ぶことなのか
学生時代、私は化学を学び、やがて研究をするようになった。
研究に入ると、それまでとは少し違う世界が現れた。目の前にある問題には、教科書の後ろに答えが書いてあるわけではない。仮説を立て、実験をする。予想どおりの結果が出ることもあれば、まったく違う結果が出ることもある。その結果から次の仮説を考え、また試す。
「人は、なぜある仕事には夢中になるのか」で書いたように、私はこの過程が好きだった。誰も歩いていない道を、自分で考えながら進んでいく感覚があった。
だが、答えのない問題に取り組めたのは、それまでに学んだ知識があったからでもある。
化学の知識がなければ、仮説そのものを立てることができない。過去に何がわかっていて、何がまだわかっていないのかも判断できない。自由に考えるということは、何もないところから好き勝手に考えることではない。知識という土台の上で、既にある答えを疑い、組み替え、その先を考えることである。
だから、知識を教えることに意味がないのではない。
知識は、自分で考えるための土台である。
そして、ここでいう知識は、専門知識だけではないと私は考えている。歴史を知る。文学を読む。哲学に触れる。自然科学を学ぶ。自分とは異なる社会や時代、人間のものの見方を知る。そうすることで、自分が当然だと思っていた前提を、別の角度から見直すことができる。
私は、リベラルアーツという言葉を、「自由に生きるための術」として受け取りたい。
ここでいう自由とは、好き勝手に生きることではない。自分が置かれている状況を知り、自分とは異なる考え方があることを知り、そのうえで、自分はどう考え、どう生きるのかを自分で選べることである。
歴史を知れば、現在の常識が永遠の常識ではないことがわかる。文学を読めば、自分とは違う人生を内側から想像することができる。哲学に触れれば、自由とは何か、正義とは何か、幸福とは何かという、普段は見過ごしている前提そのものを問い直すことができる。自然科学は、思い込みだけで判断せず、観察し、仮説を立て、確かめるという世界の見方を与えてくれる。
リベラルアーツを学ぶ意味は、単に知識の量を増やすことにはない。知らなかった世界を知ることで、自分が当然だと思っていた世界から少し離れて見ることができる。そして、より広い視野の中から、自分で考え、自分で選べるようになる。
知識は、世界を知るためにある。そして世界を知ることは、自分の生き方を自分で考えるための可能性を広げる。
問題なのは、知識を教えることではない。知識を覚えることだけで学びが終わり、その知識を使って何を考え、何を問い、どう生きるのかというところまで進まないことである。
知識があれば、正しく選べるのか
社会に出ると、答えが一つに決まっていない問題のほうが多くなる。
どの仕事に力を注ぐのか。誰に任せるのか。失敗した事業を続けるのか、やめるのか。利益と顧客への責任がぶつかったとき、何を選ぶのか。自分の利益と組織の目的が衝突したとき、どうするのか。
知識は判断を助ける。しかし、知識そのものが判断してくれるわけではない。
同じ情報を持っていても、異なる結論を出す人がいる。何を大切にするのか、どこまで責任を引き受けるのか、目の前の利益と将来の価値をどう考えるのかによって、選択は変わる。
「人格とは、『いい人』であることなのか」では、人格は、何を知っているかだけではなく、自分で選べる状況に置かれたときに何を選ぶのかに現れると考えた。
この考えを教育へ戻してみる。
知識を教えることで、「何を知っているか」は増やすことができる。しかし、現実の世界では、その知識を使って状況を理解し、自分で判断し、選択し、その結果に責任を持たなければならない。
たとえば、環境問題について多くの知識を持っていても、自分の会社の利益と環境への責任が衝突したときに何を選ぶかは、知識だけでは決まらない。歴史を詳しく知っていても、目の前で少数派が不当に扱われているときにどう行動するかは、その知識とは別に本人へ返される。
だから教育には、知識を渡すことに加えて、その知識を使って考え、選ぶ経験が必要になる。
知っていることと、その知識をどう使うかは、別の問題なのである。
教育の成果は、何で測るのか
ここで、学校の試験を考えてみたい。
数学の試験で90点を取れば、その範囲の問題をかなり理解していることはわかる。50点なら、理解できていない部分を探す手がかりになる。試験には、そのような役割がある。
しかし、90点という数字だけから、その人が未知の問題にどう向き合うのかまではわからない。わからないことを自分で調べられるのか。他人の考えを聞いて、自分の考えを修正できるのか。学んだ数学を現実のどの問題に使うのか。そもそも、何を問題として捉えるのか。そうしたことは、一つの点数には収まりきらない。
だからといって、試験をなくせばよいという話でもない。
重要なのは、何を測っているのかを忘れないことである。
これは企業のマネジメントにも似ている。たとえば売上高は重要な数字である。売上が伸びているかどうかを知らずに経営することはできない。しかし、売上高という数字だけでは、その会社が顧客に本当に価値を提供しているのか、社員が成長しているのか、将来も事業を続けられるのかまではわからない。
数字は、現実の一部を見えるようにする。
しかし、見えるようになった数字そのものが目的になると、少し奇妙なことが起きる。顧客のために仕事をしていたはずなのに、売上目標を達成することだけが仕事になる。学ぶために試験があったはずなのに、試験で点を取るために学ぶようになる。
手段と目的が入れ替わるのである。
教育も同じである。
点数を上げる。進学率を上げる。資格の取得率を上げる。どれも教育の成果を見るための指標にはなり得る。しかし、それらを高めること自体が教育の目的になれば、そもそも何のために学ぶのかという問いが見えなくなる。
だから、教育をマネジメントの問題として考えるなら、評価方法を議論する前に、一段上の問いへ戻らなければならない。
私たちは、どのような人が育つことを教育の成果と考えるのか。
その問いが定まって初めて、「では、その成果をどのように確かめるのか」という評価の問題を考えることができる。
自由に考えさせれば、それでよいのか
では、知識や試験を重視する教育の反対側に、自由な教育を置けばよいのだろうか。
「自由にすれば、人は本当に自ら動くのか」で考えたように、自由と放任は同じではない。
何も教えずに「自由に考えなさい」と言われても、考えるための材料がなければ思考は深まらない。何をしてもよいと言うだけでは、自分の選択が他者や社会にどのような結果をもたらすのかを学ぶことも難しい。
エドワード・デシとリチャード・フラストは、自律性を支えるためには、単に好きなことをさせるのではなく、本人を意思決定に参加させ、選択する機会を与えることが重要だと考えている。また、制限が必要な場合でも、その理由を理解できるようにし、その範囲の中で本人が選べる余地を残すことを重視している。
ここでも、自由か規律かという二者択一ではない。
たとえば、子どもに道路を好きなように渡らせて、「自分で考えなさい」と言うことが教育ではない。危険を教え、守るべきことを伝える必要がある。しかし、成長してもすべての判断を親が代わりにしていれば、その人はいつまでたっても自分で判断する経験を持てない。
知らなければならないことを学ぶ。なぜ必要なのかを考える。自分で判断する。選んだ結果を受け止める。そして、もう一度考える。
教育には、この循環が必要である。
教育は、人格形成にどう関わるのか
ここまでの議論を、人格の問題へ戻してみたい。
知識を学ぶ。それを使って考える。自分で選ぶ。結果を受け止める。失敗すれば振り返り、次の選択を変える。
「人格は、育てられるのか」では、こうした経験と選択の積み重ねの中で、その人の在り方が形づくられていくと考えた。
教育が知識の獲得だけでなく、自分で考え、選び、責任を引き受ける経験まで支えるのであれば、教育は必然的に人格の形成にも関わる。
ただし、この言葉は慎重に扱わなければならない。
「教育とは人格形成である」と言った瞬間に、「では、どのような人格が正しいのか」という問題が生まれるからである。
国家が決めるのか。学校が決めるのか。教師が決めるのか。親が決めるのか。
誰かが望ましい人間像を完成形として決め、そこへ子どもを当てはめていくのであれば、人格形成は簡単に統制へ変わる。
だから私は、教育が人格を「つくる」とは考えない。
教育する側にできるのは、知識を渡すこと、異なる世界に出会わせること、自分で考える余地を残すこと、選ぶ経験を与えること、そして、その結果についてともに考えることまでである。
最後に何を考え、何を選び、どのような人間になるのかは、本人に残さなければならない。
これは、この連載で最初から考えてきたマネジメントと同じ構造を持っている。
人を直接動かすのではなく、人が自ら動ける条件をつくる。
人格を直接つくるのではなく、人が自らの人格を育てていける条件をつくる。
教える人の答えを、超えていく
教育する側にとって、これは簡単なことではない。
教える以上、自分の知識を伝えなければならない。間違っていることを訂正しなければならないこともある。一定の基準を求めることも必要になる。
しかし、学ぶ人がいつまでも教える側の答えだけを再現しているのであれば、それで教育が完成したとは言えない。
優れた研究者のもとで学んだ人が、その研究者には思いつかなかった問いを立てる。優れた技術者から学んだ人が、その技術を使って新しいものをつくる。ある世代から知識を受け取った次の世代が、それを疑い、修正し、さらに先へ進む。
学ぶとは、受け継ぐことであると同時に、超えていくことでもある。
だから、教育する側には少し奇妙な役割がある。
自分の知っていることをできる限り伝えながら、最後には、自分の答えから相手を自由にしなければならない。
教師の答えを覚えるところから学びが始まることはある。しかし、それを自分で検討し、自分とは違う答えに出会い、自分自身の答えをつくれるようになったとき、その人は教師がいなくても学び続けられる。
教育の一つの成果は、やがて教育する側を必要としなくなる人を育てることなのだと思う。
「何を学ぶか」の前に、「なぜ学ぶのか」
教育について語るとき、私たちは「何を教えるか」を考えがちである。
国語なのか。数学なのか。科学なのか。歴史なのか。情報なのか。英語なのか。
もちろん、何を学ぶかは重要である。
しかし、その前に「なぜ学ぶのか」という問いがある。
スティーブン・R・コヴィーは、教育を単なる訓練と区別し、より大きな問題や目的、他者のものの見方に照らして、自分自身の考え方を見直す力を育てることに教育の意味を見ている。知識や技能だけを磨いても、それを何のために使うのかを考えられなければ、視野は狭くなる。
ここで、リベラルアーツへ戻ってくる。
なぜ歴史を学ぶのか。なぜ文学を読むのか。なぜ哲学を考えるのか。なぜ自分の専門とは直接関係のない科学や芸術に触れるのか。
それは、すぐに役立つ答えを得るためだけではない。
自分が生きている世界を、より広く知るためである。
世界を広く知れば、自分が当然だと思っていたものを疑うことができる。別の生き方を知れば、自分にも別の選択肢があることに気づく。異なる価値観に触れれば、自分は何を大切にして生きたいのかを改めて考えることになる。
だから私は、リベラルアーツを「自由に生きるための術」と考えている。
誰かが与えた一つの答えしか知らなければ、そこから選ぶことはできない。世界を知り、複数のものの見方を知り、それを自分で考えたうえで選べること。それが、自由に生きるための一つの条件になる。
教育とは、知識を増やすだけではなく、その知識によって世界を広げ、自分の人生を自分で考えられるようにする営みでもある。
教育は、何のためにあるのか
最初の問いに戻ろう。
教育は、何のためにあるのだろうか。
点数の高い人をつくるためだけではない。よい学校へ進むためだけでも、よい会社へ入るためだけでもない。もちろん、仕事や生活に必要な知識と技能を身につけることは、教育の重要な役割である。
しかし、それだけではない。
知らなかったことを知り、世界を広げる。自分とは違う考えに触れ、自分の前提を問い直す。わからないことに問いを立て、自分の頭で考える。そして、自分で選び、その結果を受け止める。
私は、教育とは、人が自由に生きるために、世界を知り、自分で考え、自分で選び、その選択に責任を持てるようになるための営みだと考える。
もちろん、自分で選ぶことは、好きなことだけをすることではない。私たちは他者とともに生きている。自分の選択は、自分だけでなく他者にも影響する。だから、自分で考え、自分で選ぶことには、その結果を引き受ける責任が伴う。
自由と責任は、ここでも一つにつながっている。
知識を得ることで、それまで見えなかった世界や選択肢が見えるようになる。経験を重ねることで、自分の選択がどのような結果をもたらすのかを知る。そして、その知識と経験をもとに最後に何を選ぶのかは、本人に残される。
そこに、その人の在り方が表れる。
すると、次の問題が見えてくる。
すべての人に共通して必要な知識や経験はある。一方で、人には異なる関心があり、異なる強みがあり、学び方にも違いがある。同じ土台をすべての人に保障することと、すべての人を同じ型で育てることは、同じではない。
では、何を共通して学び、どこから本人の選択に委ねるべきなのだろうか。
次に考えたいのは、「同じ教育を、すべての人に与えるべきなのか」という問いである。
この記事の問いを、自分の問題として考えてみませんか。
Socrackerは、少数の問いとマネジメントの視点から、あなた自身が考え、判断するための材料を返す対話型AIです。
参考文献
スティーブン・R・コヴィー『完訳 7つの習慣(普及版)』フランクリン・コヴィー・ジャパン訳、FCEパブリッシング、2020年。
エドワード・L・デシ、リチャード・フラスト『人を伸ばす力――内発と自立のすすめ』桜井茂男監訳、新曜社、1999年。
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