――尊敬する社長から、リーダーシップを考える
前回の「強みとは、得意なことなのか」では、強みはその人の中に固定された能力として存在するだけではなく、仕事や環境、人との関係の中で初めて外へ現れるのではないかと考えた。考える余地があり、任せてくれる人がいて、相談できる人がいる。そして、その力を必要としている相手がいる。そうした条件がつながったとき、個人の中にあったものが仕事として現れ、成果へと向かい始める。
だとすれば、次の問いが残る。そのような環境は、誰がつくるのだろうか。
もちろん、上司一人がつくるものではない。制度も、仕事そのものも、同僚も、顧客も関係する。それでも、権限を持つ人の一言が、誰かの挑戦を始めさせることもあれば、終わらせることもある。私がこのことを考えるとき、どうしても一人の社長を思い出す。
「人生一度きりだから、やりたいことやらなくちゃ」
私が入社した会社の社長は、ずいぶん人間くさい人だった。よく飲みに出かけ、くだらない話が好きで、よく笑った。少なくとも私は、彼が怒っているところを見た記憶がない。堅苦しい経営者という感じではなかったし、自分を偉く見せようとする人でもなかった。
何度聞いたかわからないほど言われた言葉がある。
「人生一度きりだから、やりたいことやらなくちゃ」
私が何かをやろうとすると、たいてい応援してくれた。「社長になっちゃえ」と言われたこともある。「若い頃の自分を見ているようだ」と言われたこともあった。どこまで本気で言っていたのかはわからない。酒の席で交わした言葉も少なくない。それでも不思議なことに、そういう言葉は何年たっても残っている。
そして私は、その人のもとで働いているとき、しばしばこう思っていた。
この人のために頑張ろう。
命令されたからではない。怒られるのが怖かったからでもない。むしろ逆だった。自由にさせてもらい、応援してもらったからこそ、自分から何かを返したくなったのである。
人柄がよければ、よいリーダーなのか
ただ、ここで話を終えてしまうと、「よいリーダーとは、優しくて人柄のよい人である」という話になってしまう。それでは少し違うように思う。
人柄がよく、誰からも好かれていても、組織を導けない人はいるだろう。反対に、厳しく、決して親しみやすいとはいえなくても、大きな成果を生み出す人もいる。人気投票でリーダーを選ぶわけではない。ときには嫌われる決断をしなければならないのも、リーダーの仕事である。
ジム・コリンズが「第5水準のリーダーシップ」で描いた優れたリーダーも、華やかなカリスマを備えた人物とは限らない。むしろ彼が重視したのは、個人としての謙虚さと、組織の目的を実現しようとする強い意志が同居していることだった。
この視点を置くと、私の記憶にある社長についても、問い方が変わってくる。
彼がよく笑っていたことが重要なのではない。怒らなかったことだけが重要なのでもない。「やりたいことをやれ」と言ったことだけでもない。それらの振る舞いによって、周囲の人とのあいだにどのような関係が生まれていたのか。そこを見なければ、リーダーシップは見えてこない。
信じることと、放っておくことは違う
「自由にすれば、人は本当に自ら動くのか」で考えたように、自由と放任は同じではない。何をしてもよいと言って、あとは知らないというのであれば、それは任せているのではなく、責任を手放しているだけかもしれない。
信頼についても同じことが言える。相手を信じるとは、その人が絶対に失敗しないと考えることではないだろう。人は失敗する。それでも考える余地を渡し、任せ、必要なときには支える。その一方で、何のための仕事なのか、何を成果とするのかについては曖昧にしない。自由を与える側にも責任がある。
ドラッカーが、マネジメントは権力を持つのではなく責任を持つのだと考えたことは、この点で示唆的である。権限があるから人を動かしてよいのではない。その権限は、果たすべき責任があるから与えられている。
そう考えると、信頼とは単なる優しさではなくなる。
相手を信じることと、自分が責任を引き受けることは、本来、一つの行為の両側にあるのかもしれない。
自分より大きくなることを恐れない
今になって思い返すと、「社長になっちゃえ」という言葉が妙に心に残っている。
もちろん、本当に私を次の社長にしようとしていたという話ではない。おそらく、ずいぶん軽い調子で言った言葉だったのだろう。それでも、会社の頂点にいる人が若い社員に向かって、「そこまで行ってしまえ」と言えることには、何かが表れているように思う。
部下が成長し、自分の想像を超えていくことは、上司にとって必ずしも心地よいことばかりではない。自分より詳しくなる。自分より成果を出す。自分には思いつかなかったことを始める。そうなれば、上司自身の価値まで問われているように感じることもあるだろう。
だからこそ、人を育てるという行為には、知識や技術とは別のものが必要になる。
自分の立場を守るために、相手を小さくしないこと。
私が彼を「器の大きな人だった」と感じていた理由の一つは、そこにあったのではないかと思う。自分より下に人を置くことで、自分の大きさを証明する必要がない。むしろ、人が大きくなっていくことを面白がれる。
人を大きくできる人は、自分を大きく見せる必要がない。
ただし、ここにももう一方の側面がある。謙虚であれば、それだけでよいわけではない。組織には目的があり、成果が必要である。難しい決断から逃げず、必要なことをやり切る意志もいる。コリンズが、謙虚さと強い意志という一見矛盾するものを同時に求めた理由は、そこにあるのだろう。
人を動かさずに、人が動く
ここまで考えてくると、この連載の最初に置いた問いへ戻ってくる。
「マネジメントとは、人を動かすことなのか」
管理を強めれば、人が自ら動かなくなることがある。では自由にすればよいのかと考えると、自由だけでは放任になりうる。人が夢中になれる条件を考えると、フローという現象が見えてきた。しかし、同じ条件でも誰もが同じように力を発揮するわけではない。そこで強みという問いが現れた。そして強みを考えていくと、それを発揮できる環境をつくる人の存在が見えてきた。
別々の問題を考えてきたようで、どうやら同じ場所の周りを歩いていたらしい。
人を直接動かすのではない。目的を示し、考える余地を残し、信頼し、任せる。そして、その人の強みが、仕事を通じて誰かの役に立つようにする。人が自ら動き始めたとき、必要なら支え、結果についてはともに責任を引き受ける。
リーダーができるのは、おそらくそこまでなのだろう。
私が社長に命令されて「この人のために頑張ろう」と思ったわけではない。自分でそう思ったのである。その違いは小さいようで、決定的に大きい。
もっとも、「この人のために」という感情だけに組織が依存するのも危うい。優れたリーダーの周りに人が集まっても、その人がいなくなれば何も残らないのであれば、組織としては弱い。最終的には、個人への信頼が、仕事そのものへの責任や、顧客への貢献、組織が目指す目的へと移っていかなければならない。
優れたリーダーとは、自分に人を依存させる人ではなく、自分がいなくても人が自ら考え、動ける状態を残す人なのかもしれない。
リーダーシップの奥にあるもの
それでも、まだ一つわからないことがある。
同じような役職に就き、同じような権限を持っていても、人を押さえつける人がいる一方で、人を自由にし、力を引き出す人がいる。マネジメントの技法を学んだからといって、必ず後者になれるわけでもない。「信頼しましょう」「任せましょう」と言葉で理解することと、本当に人を信じて任せることのあいだには、かなり大きな距離がある。
その違いは、どこから生まれるのだろう。
よく笑うことだろうか。怒らないことだろうか。優しいことだろうか。おそらく、それだけではない。権限を持ったときに、それを何のために使うのか。自分のエゴとどう付き合うのか。他人が成長することをどう受け止めるのか。成果に対する責任から逃げないか。そうした判断のさらに奥には、その人が人間や仕事や自分自身をどう見ているのかという、もっと根の深いものがあるように思う。
私はこれまで、それをうまく説明できず、「器が大きい」という言葉で表してきた。
だが、もしリーダーシップの質を決めるものが、技法のさらに奥にあるのだとすれば、その言葉をもう少し正確に考えなければならない。
リーダーシップを考えていたはずが、最後には、その人がどう在るかという問いに行き着いた。
次に考えたいのは、「人格」である。
参考文献
P.F.ドラッカー『マネジメント【エッセンシャル版】―基本と原則』上田惇生編訳、ダイヤモンド社。
ジム・コリンズ、ビル・ラジアー『ビジョナリー・カンパニーZERO』土方奈美訳、日経BP。
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