人は、なぜある仕事には夢中になるのか

――「フロー」から、人が活きる条件を考える

誰も歩いていない道を歩く

 学生時代、夜中まで研究室に残って実験をしていたことがある。誰かに残れと言われたわけではない。明日までに終わらせなければならない仕事でもなかった。それでも、なかなか帰ろうという気にならなかった。

 当時取り組んでいたのは、少なくとも私の知る限り、同じテーマを研究している人がほかにいない研究だった。どこかに答えが用意されているわけではない。仮説を立て、実験する。結果が出る。その結果を見て、また仮説を立てる。予想どおりなら次へ進み、予想と違えば、なぜ違ったのかを考える。ひとつ分かると、その先にまた分からないことが現れる。それが嫌なのではなく、むしろ、その先を確かめたくなった。

 誰も歩いていない道を、自分で切り開きながら歩いていく。

 それが単純に楽しかった。考えてみれば不思議である。夜中まで実験を続けるのだから、身体は疲れていたはずだ。実験がすべて成功したわけでもない。それなのに、苦しかったという記憶よりも、面白かったという記憶の方が強く残っている。

失敗すると、次を試したくなった

 それから会社員になり、似たような感覚をもう一度経験した。勤務先には、水素化反応を請け負う「水添事業」があった。貴金属触媒を使った反応を扱っており、当時は空気や水にも比較的安定した不均一触媒を用いることが多かった。

 ところが、あるとき金属錯体触媒を使う反応のテーマが持ち上がった。金属錯体は私が学生時代に研究していた分野である。一方、その種の触媒には空気や水に不安定なものがあり、それまで会社には、そうしたものを扱うための技術や装置の蓄積が十分にはなかった。では、空気や水に触れさせずに、どうやって触媒を反応装置へ仕込めばよいのか。私には、この問題が面白く思えた。

 既製の手順があるわけではない。そこで自分で装置を考えた。上司に相談し、器具を扱う業者とも話をしながら装置を組み、実際に反応させてみる。当然、思ったようにはいかない。装置が複雑になれば、予想していなかった問題も起きる。それでも失敗すると、不思議とすぐ次の実験をしたくなった。「なにくそ。うまい装置を考えたんだから、できるはずだ」。そんな気持ちで、また考え、直し、試した。

 最終的にはラボでかなりよい結果が得られた。ただ、少なくとも私が会社にいる間に、そのテーマが事業化されたという話は聞かなかった。それでも、あの仕事を思い出すと「楽しかった」という感覚が残っている。装置を組み立てることが、あれほど面白いとは思わなかった。

 成果が保証されていたから夢中になったわけではない。むしろ、何度も失敗している。ところが、失敗すると何かが分かる。分かれば、次に試したいことが生まれる。失敗が仕事をやめる理由ではなく、次の実験を始める理由になっていたのである。

対象は違うのに、なぜ同じことが起きるのか

 そして今、同じようなことがプログラミングでも起きる。コードを書く。動かしてみる。エラーが出る。原因を探す。修正する。また動かす。なかなか思いどおりにならないこともある。それなのに、気がつけばかなりの時間が過ぎている。

 学生時代の化学実験、会社員時代の実験装置、現在のプログラミング。扱っているものはまったく違う。それなのに、なぜ同じように夢中になるのだろう。振り返ってみると、共通していたのは対象そのものではないように思える。分からないことがある。自分で考える余地がある。仮説を立てる。試してみる。結果が返ってくる。その結果から次の仮説が生まれ、また試したくなる。

 自分の行為によって、未知の世界から返事が返ってくる。

 おそらく私は、この循環そのものを面白いと感じていたのだと思う。そう考えると、「何が好きか」という問いも少し違って見えてくる。化学が好きなのか。装置をつくるのが好きなのか。プログラミングが好きなのか。もちろん、それぞれに興味はある。しかし、その奥にはもっと共通したものがあるのではないだろうか。

 分からなかったものが、自分で考え、試すことによって少しずつ分かるようになる。しかも、分かれば終わりではない。その先にまた新しい問いが現れる。私は研究や仕事の対象そのものだけではなく、問いを立て、試し、答えを受け取り、そこからまた新しい問いを立てるという営みに惹かれていたのかもしれない。

 では、人はなぜ、こうした状態に入ると時間を忘れるほど夢中になれるのだろう。

楽なら、人は夢中になれるのか

 心理学者ミハイ・チクセントミハイは、人が一つの活動に深く没頭している状態を「フロー」と呼んだ。目の前のことに注意が集中し、余計なことが意識から遠ざかる。行為と意識が一体になったように感じ、ときには時間の感覚さえ変わる。

 興味深いのは、フローが単に「楽であること」と同じではないことである。私たちは普通、難しい仕事より簡単な仕事の方が楽だと考える。負担を減らし、失敗する可能性を小さくすれば、人は気持ちよく働けるようにも思える。もちろん、無意味な苦痛や過大な負担を取り除くことは必要である。しかし、簡単であればあるほど、人は夢中になるのだろうか。

 何度やっても成功するゲームは、やがて面白くなくなる。必ず勝てる相手とだけ試合をしていても、次第に退屈するだろう。仕事でも、自分の能力をほとんど使わずにできることを延々と繰り返していれば、負担は少なくても、そこに面白さを感じ続けるのは難しい。

 では、難しければ難しいほどよいのか。それも違う。どう考えても自分にはできない仕事を与えられ、失敗を繰り返し、どうすれば前に進めるかさえ分からなければ、挑戦より先に不安が大きくなる。簡単すぎれば退屈する。難しすぎれば不安になる。だとすれば、人が夢中になりやすいのは、そのどちらでもない。今持っている力を使わなければ届かない。しかし、もう少し考え、もう少し試せば何かが見えてきそうなところである。

 少し先に、まだできないことがある。

 思い返せば、学生時代の研究も、会社員時代の装置開発も、プログラミングもそうだった。すでに答えが分かっているわけではない。しかし、まったく手も足も出ないわけでもない。そして、自分が行動すれば結果が返ってくる。実験をすれば反応が起きる。装置を変えれば結果が変わる。コードを書けば、動くか、エラーになる。その結果を見れば、次に何をすればよいのかを考えられる。

 こうして見ると、夢中になるために必要なのは、単なる自由でも、単なる難しさでもないように思える。自分の力と挑戦とのあいだに適度な緊張がある。何をしようとしているのかが分かる。自分で考え、試す余地がある。そして、やってみれば結果が返ってくる。そうした条件が重なったとき、人は活動の中へ深く入り込んでいくのではないだろうか。

夢中になれば、それでよいのか

 ここで話を終えれば、「では、人がフローになれる仕事を増やせばよい」という、ずいぶん分かりやすい結論になる。しかし、そこで一度疑ってみたい。人は、価値あることだけに夢中になるわけではない。

 ゲームにも没頭する。賭け事にも夢中になれる。仕事であっても、一つのことに集中しすぎて周囲が見えなくなることがある。夢中になって長時間働き続け、身体を壊してしまえば、それを「人が活きている」と呼んでよいのかも疑わしい。

 夢中になっていることと、価値ある成果を生み出していることは同じではない。

 少なくとも組織の仕事を考えるなら、本人が夢中になっているというだけで、その仕事の価値は決まらない。その仕事によって誰にどのような価値が生まれたのか、という問いが残る。私自身、会社員時代の装置開発は楽しく、ラボではかなりよい結果も得られたが、少なくとも在職中には事業化には至らなかった。夢中になったという経験そのものと、組織として成果を生み出すこととは、やはり区別して考える必要がある。

 しかし、その反対も同じである。成果だけを求め、人が力を失っていくような働き方を続ければ、その成果そのものも長くは続かないだろう。ここでも「人か成果か」という二者択一では足りない。人が活きることと、成果を生み出すこと。その二つが結びつくところを探すことが、マネジメントには求められる。

人を夢中にさせることはできない

 以前の人を動かそうとすると、人は動かなくなるでは、人を主体的に動かそうとして管理を強めるほど、かえって人が動かなくなることがあると考えた。続く自由にすれば、人は本当に自ら動くのかでは、その反対に自由を与えるだけでも十分ではないことを考えた。

 では今度は、「人をフローにすればよい」と考えれば解決するのだろうか。「社員をフロー状態にしよう」と目標を掲げ、夢中になるための仕組みをつくり、それを測り、管理し始めたらどうなるだろう。「もっと主体的に働け」の次に「もっと自由に働け」が来て、その次に「もっと夢中になって働け」が来る。それでは、命令の言葉が変わっただけである。

 人を夢中にさせることはできない。

 しかし、人が夢中になれる条件を整えることはできる。

 何のための仕事なのかを明確にする。本人の力に対して、少し挑戦になる仕事を任せる。自分で考え、判断できる余地を残す。行動に対して結果が返ってくるようにする。困ったときには相談できる。そして、その人が何をするときに力を発揮するのかを知ろうとする。

 マネジメントにできるのは、おそらくそこまでなのだろう。人間を直接動かすのではない。人が自ら力を発揮できる条件をつくる。

 ただ、ここで一つ問題が残る。同じような条件を整えても、すべての人が同じことに夢中になるわけではない。学生時代の研究、会社員時代の装置開発、現在のプログラミングに私は面白さを感じた。しかし、同じ仕事を与えられた人が、必ず同じように感じるわけではないだろう。人と話すことに夢中になる人もいれば、ものをつくることに惹かれる人もいる。数字を読み解くことが楽しい人もいれば、人を育てることに喜びを感じる人もいる。

 そして、先ほど挙げた条件の中には、ほかとは少し性質の違うものが一つある。「その人が何をするときに力を発揮するのか」という問いである。これは、仕事の目的を明確にするといった組織側の工夫だけでは答えられない。その人自身を見なければならない。

 では、その違いはどこから生まれるのだろう。得意だから好きなのか。好きだから続け、その結果として得意になったのか。あるいは、その両方なのだろうか。そもそも「強み」とは、ほかの人より上手にできることだけをいうのだろうか。

「その人は、何をするときに最もその人らしく力を発揮するのか」

 人が夢中になるという問いを追っていくと、最後にはこの問いに行き着く。どうやら、人が活きる条件を考えるには、「強み」という言葉そのものを考え直す必要がありそうである。

参考文献

M.チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』今村浩明訳、世界思想社。

P.F.ドラッカー『マネジメント【エッセンシャル版】―基本と原則』上田惇生編訳、ダイヤモンド社。

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