――「任せる」と「放っておく」のあいだ
「任せる」という言葉の不思議
仕事をしていると、同じ言葉なのに、誰から言われるかによってまったく違って聞こえることがある。
「この仕事は君に任せるよ」
ある上司からそう言われると、少しうれしくなる。自分を信頼してくれているように感じるし、期待に応えたいとも思う。ところが、別の上司から同じことを言われると、なぜか不安になる。何を目指せばよいのか分からない。どこまで自分で決めてよいのかも分からない。相談すると「任せたんだから自分で考えて」と言われ、それで自分なりに判断して進めると、あとになって「なぜそんなやり方をした」と叱られる。
どちらも、表面だけを見れば「任せている」。しかし一方では、仕事がだんだん自分のものになっていく。もう一方では、一人で責任だけを背負わされたような気持ちになる。同じ「任せる」なのに、なぜこれほど違うのだろう。
前回、「人を動かそうとすると、人は動かなくなる」という問題を考えた。細かな指示や管理によって、人が自分で考える余地を奪ってしまうことがある。ならば、その反対をすればよいように思える。管理を減らし、自由を増やす。それで人は、自ら動くようになるのだろうか。
どうも、話はそれほど単純ではない。
管理の反対は、本当に自由なのか
管理には分かりやすい力がある。誰が何をするのかを決める。期限を決める。手順を決める。結果を確認する。人を一定の方向へ動かすには、とても便利な仕組みである。
しかし、その便利さには代償がある。何をするかも、どうするかも、すべて誰かが決めてくれる環境に長くいれば、人は次第に「何をすべきか」を自分で考えなくても済むようになる。そこで今度は、反対方向へ振りたくなる。「細かく管理するのをやめよう。本人に任せよう。もっと自由に考えてもらおう」。
一見すると合理的である。ところが、管理を取り除いた場所に主体性が自動的に生まれるわけではない。何をしてもよい。どこへ向かってもよい。何を成果とするのかも決まっていない。それも確かに、自由と言えなくはない。
けれども、広い荒野の真ん中に立たされて、「好きなところへ行ってください」と言われたらどうだろう。行く方向すら分からなければ、自由が大きいほど途方に暮れることもある。自由とは、選択肢が多いことだけではないのかもしれない。自分がどこへ向かおうとしているのかが分かっていて、その道筋を自分で選べること。そのとき初めて、自由は人を動かす力になる。
ここまで来ると、「管理か自由か」という問いそのものが怪しくなってくる。
自由には「何のために」がいる
たとえば、上司から資料をつくるよう頼まれたとする。「この項目を、この順番で、この書式に入れて、午後三時までにつくってください」。これなら迷うことは少ない。しかし、その人が考える余地もほとんどない。
反対に、「好きな資料をつくってください」と言われても困る。自由ではあるが、何をすればよいのか分からない。では、「明日の会議で、この資料を見た人が判断できるようにしたい。何を載せればよいか、どう見せればよいかは考えてみてほしい」と言われたらどうだろう。
目的は決まっている。しかし、そこへ至る方法は決まっていない。何を載せるか。何を削るか。どんな順番なら伝わるか。数字をどう見せるか。そこで初めて、本人の判断が必要になる。
ここには少し不思議な逆転がある。制約がなくなったから自由になったのではない。「何のために」が明確になったから、自分で考えられるようになったのである。自由とは、何も決まっていない状態ではなく、決まっているものと、自分で決められるものとのあいだに生まれるのかもしれない。
問題は、管理するか自由にするかではない。何を共有し、何を任せるのか。
マネジメントの難しさは、その境界を見つけることにある。
責任は、自由を縛るのか
自由について考えると、どうしても「責任」という言葉にぶつかる。自由になりたい。しかし、責任は重い。そう考えれば、この二つは反対側にあるように見える。
だが、自分では何も決められない人に、「結果について責任を持ちなさい」と言ったらどうだろう。仕事のやり方も、期限も、判断も、すべて他人が決めている。それなのに結果だけは本人の責任だというのなら、責任という言葉はただの負担になってしまう。
ところが、自分で判断する余地があると事情が変わる。自分で考え、自分で選んだ。だから結果についても自分のこととして考える。自分で決められるから、自分の仕事になる。自分の仕事だから、結果にも関心を持つ。
つまり、自由があるから責任が生まれ、責任があるから自由が意味を持つ。この二つは互いを打ち消すものではなく、むしろ互いを成立させているのではないだろうか。
もちろん、「任せたのだから、失敗したら全部あなたの責任だ」という話ではない。それでは自由という言葉を使った責任転嫁になってしまう。組織の仕事では、結果の原因を一人の人間だけに求めることは難しい。情報が足りなかったのかもしれない。仕組みに問題があったのかもしれない。相談しにくい関係だったのかもしれない。
責任を持つことと、一人で責任を背負うことは違う。
こうして自由と責任を考えていると、結局また、人と組織との関係という問題に戻ってくる。
信頼とは、放っておくことではない
私は以前、仕事をかなり自由に任せてもらったことがある。細かな指示を受けた記憶はあまりない。それでも、不安だったという記憶もあまりない。
振り返ってみると、単に自由だったからではないと思う。必要なときには相談できた。何か考えを持っていけば話を聞いてもらえた。そして、自分なりに考えたものを持っていけば、「やってみたらいい」と言ってもらえた。
放っておかれているとは感じなかった。任せてもらっていると感じた。
外から見れば、この二つはよく似ている。細かく指示しない。頻繁に口を出さない。本人に判断させる。しかし、任される側からすると、そこには大きな違いがある。一方には関心があり、もう一方には無関心がある。
信頼とは、何もしないことではないのだろう。相手が自分で考える力を持っていると信じ、そのための余地を残す。同時に、困ったときには支えられる場所にいる。そして、何を目指しているのかは互いに分かっている。だからこそ、細かな指示がなくても動くことができる。
もしそうなら、「任せる」という行為は、思っている以上に難しい。すべてを指示してしまうこともできる。反対に、何も言わず放っておくこともできる。難しいのは、そのあいだに立つことである。どこまで伝えるのか。どこから本人に考えてもらうのか。いつ声をかけるのか。いつ黙って見ているのか。
人を信頼するとは、ただ相手を信じる気持ちの問題ではない。距離の取り方の問題でもある。そして、おそらくそこにマネジメントがある。
人は、なぜある仕事には夢中になるのか
ここまで考えると、最初の問いへの答えが少し見えてくる。自由にすれば、人は自ら動くのか。おそらく、自由にするだけでは足りない。目的が必要である。判断する余地が必要である。責任が必要である。そして、信頼されているという感覚も必要なのだろう。
人が自ら動くために必要なのは、単に管理を取り除くことではない。
人が自由を使える条件をつくることである。
ここで話を終えることもできる。しかし、現実はまた別の問題を突きつける。同じように自由を与え、同じように信頼しても、人が同じように動くとは限らない。ある人は仕事に夢中になり、時間を忘れて考え、頼まれていないところまで工夫する。ところが、別の人はそうならない。
これは単に、やる気のある人とない人の違いなのだろうか。そう考えてしまえば、結局また「本人の問題」に戻ってしまう。
けれども、私たちはときどき妙な経験をする。簡単な仕事なのに、ひどく退屈なことがある。反対に、とても難しいのに、不思議とやめたくならない仕事がある。疲れているはずなのに、もう少し続けたくなる。ふと時計を見ると、思っていた以上に時間が過ぎている。
仕事だけではない。スポーツかもしれない。音楽かもしれない。ものづくりかもしれない。勉強だった人もいるだろう。人が何かに深く入り込み、自分と行為との境目さえ薄くなっていくような時間がある。
では、あのとき人間の中では何が起きているのだろう。自由があるからなのか。能力があるからなのか。仕事の難しさがちょうどよいからなのか。それとも、自分の強みと何かがかみ合ったときに起こるのだろうか。
「人は、どのようなときに何かに夢中になるのか」
人が自ら動くという問題を追いかけていたはずなのに、問いはいつの間にかここまで来ている。マネジメントが人を活かす営みであるなら、この問いを避けることはできないだろう。
自由を与えるだけでは、人は活きない。では、人と仕事とのあいだに何が起きたとき、その人は自分の力を最もよく発揮するのだろう。
この問いの先に、「フロー」と呼ばれる現象がある。
参考文献
P.F.ドラッカー『マネジメント【エッセンシャル版】―基本と原則』上田惇生編訳、ダイヤモンド社。
フレデリック・ラルー『ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』鈴木立哉訳、英治出版。
M.チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』今村浩明訳、世界思想社。