――マネジメントという言葉を、もう一度考える
会社には、ときどき不思議な光景がある
会社には、ときどき不思議な光景がある。新しいことに挑戦しようとした人が、失敗して叱られる。すると、次からその人は慎重になる。ところが慎重になった人に、今度は上司が言う。
「もっと主体性を持ってほしい」
会議では、「自由に意見を出してください」と言われる。そこで誰かが上司とは違う意見を言うと、会議室の空気が少し変わる。その人は次第に発言しなくなり、やがて会議には反対意見が出なくなる。そして上司は嘆く。
「うちの社員は自分で考えない」
考えてみれば、ずいぶん奇妙な話である。人に主体的に働いてほしいと言いながら、主体的に動きにくい環境をつくっている。失敗を恐れず挑戦してほしいと言いながら、失敗した人を評価で罰する。自由に意見を出してほしいと言いながら、自分と違う意見には不機嫌な顔をする。
そして最後には、「最近の人はやる気がない」と、人間の側に原因を求める。
だが、本当にそうなのだろうか。
人に問題があるのではなく、人を取り巻いている仕組みのほうに問題があるとしたらどうだろう。
管理すればするほど、人は動かなくなる
私は長いあいだ、「マネジメント」という言葉には、人を管理するという意味が含まれていると思っていた。会社には上司がいて、部下がいる。上司が仕事を与え、進捗を確認し、問題があれば指示を出す。だから、管理が細かければ細かいほど、組織はきちんと動く。
一見すると、何もおかしくない。むしろ合理的に見える。
ところが現実の組織を長く見ていると、妙なことが起きてくる。指示を細かく出せば出すほど、指示を待つ人が増える。確認を増やせば増やすほど、確認されなければ動かない人が増える。失敗を減らそうとして規則を増やせば、新しいことに挑戦する人が減っていく。
つまり、人を動かすためにつくった仕組みが、いつの間にか、人が自ら動く力を弱くしているのである。
ここには一つの逆説がある。
管理を強めれば、人は動く。これは一面では正しい。一定のルールも、役割分担も、指示も必要である。何の約束事もない組織など成立しない。
しかし、管理を強めすぎれば、人は動かなくなる。これもまた正しい。
では、どちらが正しいのだろう。
おそらく、この問いの立て方そのものが間違っている。
管理か、自由か。
その二つから一つを選ぼうとするから、話がおかしくなるのである。
任せられたとき、人はなぜ動くのか
私には、かつて仕事をかなり自由に任せてくれた上司がいた。細かな指示を受けた記憶はあまりない。だからといって、放っておかれたという感じもしなかった。困ったときには相談できた。何かを提案すれば話を聞いてくれた。そして、ある程度のことは「やってみたらいい」と任せてもらえた。
不思議なのは、そのときの自分である。
自由になったのだから、楽をしてもよさそうなものだ。ところが、実際には逆だった。もっといい仕事をしたくなった。頼まれてもいないことまで考えた。どうすればうまくいくかを自分で調べた。失敗すれば申し訳ないと思った。
誰かに監視されていたからではない。
任せてもらっていると思ったからである。
この経験をしたあとでドラッカーを読むと、マネジメントについての見え方が少し変わった。ドラッカーは、人のマネジメントを、その人の強みを発揮させることとして捉えている。組織の仕事は、人の弱みばかりを矯正することではなく、それぞれの強みを成果へ結びつけることにある。
だとすれば、マネジメントとは、人を思いどおりに動かす技術なのだろうか。
むしろ逆ではないか。
人が自ら動けるようにすること。その人が持っている力を発揮できる環境をつくること。一人では生み出せない成果を、何人かが力を合わせることによって生み出せるようにすること。
こちらのほうが、マネジメントの本質に近いのではないだろうか。
自由には、責任がついてくる
しかし、ここで別の問題が出てくる。
「それなら、社員を自由にすればいいのか」
そう簡単でもない。
自由にさえすれば人が生き生きと働くのなら、マネジメントなどほとんど必要なくなってしまう。好きなことだけをやり、成果を問わず、他人への影響も考えない。それも自由だと言うのなら、組織は成立しない。
ここで、もう一つの言葉が必要になる。
責任である。
自由と責任は、反対のものではない。むしろ、本当の自由には責任がついてくる。自分で決められる範囲が広くなれば、自分の判断について引き受けなければならない範囲も広くなる。
信頼についても同じである。信頼するということは、「何をしても構わない」と放置することではない。任せるからこそ、その人に成果を期待する。任された側にも、その期待に応えようとする責任が生まれる。
だから、優れた組織は「自由か規律か」という二者択一では考えない。
自由と高い基準を同時に求める。信頼と責任を同時に求める。
むしろ自由が大きいほど、何のために働くのか、どのような成果を目指すのかが明確でなければならない。
自由とは、何をしてもよいということではない。
自分で考え、自分で選び、その結果を引き受ける余地があるということなのだ。
人を見るのか、組織を見るのか
ここまで来ると、最初の問題の見え方が少し変わってくる。
「なぜ、あの社員は主体性がないのか」
という問いから、
「なぜ、この組織では主体性を発揮しにくいのか」
という問いへ。
「どうすれば部下を動かせるか」
という問いから、
「どうすれば、人が自ら動ける環境をつくれるか」
という問いへ。
主語が、人から組織へ移る。
これは小さな違いに見えるが、かなり大きい。
人の性格を直接変えることは難しい。しかし、環境や関係や仕事の与え方なら変えることができる。同じ人でも、ある組織では力を失い、別の組織では驚くほど力を発揮することがある。
そして組織の成果は、個人の能力を単純に足し算したものでもない。
一人ひとりは非常に優秀なのに、集まるとなぜか仕事が進まない組織がある。反対に、一人ひとりだけを見れば特別なスターはいないのに、集まると驚くほどよい仕事をするチームもある。
だとすれば、私たちが見なければならないのは「人」だけではない。
人と人のあいだに何が起きているかである。
信頼があるか。目的が共有されているか。異なる意見を言えるか。失敗から学べるか。自分の強みを使えるか。自分の仕事が誰の役に立っているのかが見えるか。
こうした数字にはなりにくいものが、実は組織の力を大きく左右しているのかもしれない。
私たちは問題が起こると、つい「誰が悪いのか」と考える。
しかし、もう一つ問いを持っておいたほうがいい。
「この人がこう行動するようにさせているものは何だろう」
人だけを見ていると見えなかったものが、組織全体を見ると見えてくることがある。
マネジメントは、会社の外へ続いている
そして、ここまで考えると、もう一つ気になることがある。
これは会社だけの問題なのだろうか。
学校はどうだろう。子どもに「自分で考えなさい」と言いながら、あらかじめ用意された正解を求めすぎてはいないだろうか。
社会はどうだろう。人に責任ある市民であることを求めながら、制度の側から細かな正解を与えすぎてはいないだろうか。
国家はどうだろう。人々の力を引き出す仕組みになっているのか。それとも、人々を管理する仕組みになっているのか。
会社という小さな組織から出発した問いが、ここで社会の問題へつながってくる。
私は、マネジメントというものを企業経営だけの技術だとは考えていない。
人が集まり、何らかの目的を持ち、一人ではできないことを成し遂げようとするところには、必ずマネジメントの問題がある。
会社にもある。学校にもある。自治体にもある。国家にもある。
そして、おそらく世界にもある。
もちろん、会社と国家を同じように扱うことはできない。規模も、目的も、権限の性質も違う。しかし、一つだけ共通しているものがある。
会社の仕組みを、そのまま国家に持ち込もうというのではない。ただ、人間が集まり、目的を持ち、互いの力を生かしながら何かを成し遂げようとするとき、そこには似た問いが現れる。
どちらも、人間によってつくられているということである。
だから私は、まず人間から考えてみたい。
人は、どのようなときに力を発揮するのだろう。どのようなときに、自ら動くのだろう。どうすれば、それぞれの強みを生かしながら、同時に一人では生み出せない成果をつくることができるのだろう。
よい組織とは、人を小さくする場所ではないはずだ。
一人でいるとき以上に、その人の可能性が広がる場所であってほしい。
もし、それがマネジメントによって可能になるのなら、マネジメントとは人を管理する技術ではない。
人が活きる条件を探す営みなのかもしれない。
そして、その問いを組織の外へ広げていけば、
「人が活きる社会とは何か」
という、さらに大きな問いに行き着く。
金谷経営研究所では、そこを考えていきたい。
ただ、一つ問題が残っている。
人に自由を与えれば、本当に人は自ら動くのだろうか。
自由によって創造的になる人もいれば、自由を持て余す人もいる。同じように任せても、驚くほど力を発揮する人もいれば、そうならない人もいる。
では、その違いはどこから生まれるのだろう。
自由と責任。信頼と規律。強みと成果。
そして、人が我を忘れるほど何かに打ち込む、あの状態。
どうやら、「人が活きる」という問題には、まだ先がありそうである。
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