――リーダーシップの奥にある、人の在り方を考える
前回の「『この人のために頑張ろう』と思えるのは、なぜか」では、リーダーシップについて考えた。人を直接動かすのではなく、目的を示し、考える余地を残し、信頼し、任せる。そして、人が自ら動き始めたときには支え、結果について責任を引き受ける。そうしたリーダーシップの奥には、技法だけでは説明できないものがあるのではないか。最後に行き着いたのが、「人格」という言葉だった。
ところが、人格とは何かと問われると、途端にわかりにくくなる。「人格者」と聞けば、穏やかで、立派で、誰にでも優しい人を思い浮かべるかもしれない。あるいは、生まれつき備わった性格のようなものを考える人もいるだろう。
しかし、人格が単に「いい人」であることなら、なぜそれがリーダーシップやマネジメントに関係するのだろう。
そもそも、人格とは何なのだろうか。
性格と人格は、同じなのか
人にはそれぞれ性格がある。よく話す人もいれば、無口な人もいる。慎重な人もいれば、行動の早い人もいる。穏やかな人もいれば、感情の起伏が大きな人もいる。
前回書いた、私が尊敬していた社長は、よく笑う人だった。くだらない話も好きだったし、私は怒っているところをほとんど見たことがない。しかし、いま考えてみると、「よく笑う」という性格そのものが、私に「この人のために頑張ろう」と思わせていたわけではない。
無口でも信頼できる人はいる。厳しくても、人を大切にする人はいる。反対に、いつも笑顔で人当たりがよくても、いざというときに責任から逃げる人もいるだろう。
性格は、日頃のものの感じ方や行動に表れる、その人なりの傾向である。しかし、それだけでは、責任を引き受ける人なのか、与えられた力を何のために使う人なのかまではわからない。人格は、その先にあるものではないだろうか。
人格は、感じのよさだけでは測れない。
「いい人」であることと、人格は同じなのか
「いい人」という言葉は、たいてい周囲から見た印象として使われる。感じがよい。話をよく聞く。争いを好まない。人を困らせない。そうした人を、私たちは日常的に「いい人」と呼ぶことがある。
もちろん、それらは人間関係の中で大切なことでもある。しかし、それだけで人格を語ることはできないのではないだろうか。
仕事では、ときに対立を避けられない。成果の出ない仕事を見直さなければならない。間違っていることを間違っていると言わなければならない。誰かの提案を退けなければならないこともある。限られた資源をどこに使うのかを決めれば、選ばれない人や仕事も出てくる。
そこで問われるのは、「相手に嫌われないか」ではなく、「何が果たすべき責任なのか」である。
嫌われたくないから決めない。波風を立てたくないから問題を指摘しない。自分が悪く思われたくないから責任の所在を曖昧にする。そうした態度は、その場の人間関係を穏やかに保つかもしれない。しかし、決めなかった結果を別の誰かが引き受けるのであれば、それは責任を果たしたことにはならない。
反対に、人に好かれるとは限らない決断であっても、相手への敬意を失わず、目的と結果に対する責任を引き受けたうえでなされたものであれば、その意味は違ってくる。
「いい人」であるかどうかは、周囲からどう見えるかという評価である。人格が問われるのは、むしろ、自分が何を大切にし、そのために何を選び、どのような責任を引き受けるかという場面なのではないだろうか。
人格は、自由をどう使うかに現れる
「自由にすれば、人は本当に自ら動くのか」でも、自由と責任について考えた。人は自由がなければ主体的には動けない。しかし、自由だけがあって責任がなければ、それは放任になりうる。
人格について考えるとき、この自由と責任の関係がもう一度現れる。
たとえば、仕事が失敗したときにどうするか。部下の責任にすることもできる。環境が悪かったと言うこともできる。自分の判断が間違っていたと認めることもできる。
部下が大きな成果を出したとき、自分の手柄として語ることもできる。本人の功績として認めることもできる。自分とは違う意見を言う人が現れたとき、黙らせることもできれば、耳を傾けることもできる。
どれも、制度だけでは完全には決められない。
とりわけ権限を持つ人には、選べる余地が大きい。だからこそ、その自由を何のために使うのかが問われる。
ここで、前回考えた「第5水準のリーダーシップ」がもう一度現れる。ジム・コリンズが描いた第5水準のリーダーは、謙虚であるだけではない。強い意志を持ちながら、その力を自分の名声や利益ではなく、組織が果たすべき目的へ向ける。
考えてみれば、これはリーダーシップの技法というより、権限や能力を何のために使うのかという、その人自身の問題である。
人格は、何を知っているかより、自由を与えられたときに何を選ぶかに現れるのかもしれない。
自分の利益と、自分が責任を負うべき目的が一致しているときには、選択にそれほど迷わない。難しいのは、その二つがぶつかったときだ。自分の立場を守るのか。それとも、果たすべき目的を選ぶのか。
第5水準のリーダーシップをさらに奥へたどっていけば、結局そこには、「自分よりも大切なもののために、自分の力を使えるか」という人格の問題がある。
そこに、その人の在り方が表れる。
真摯さは、言葉ではなく行動に現れる
ドラッカーは、マネジメントの地位にある人間について、能力だけでなく「人格的な真摯さ」を重く見ている。そして、リーダーシップが発揮され、人から模倣されるのは人格においてだと考えた。
「真摯さ」という言葉も、人格と同じように抽象的である。しかし、組織の中では意外なほど具体的に見えるものではないだろうか。
「人を大切にする」と言いながら、挑戦した人だけが失敗の責任を負わされる。「自由に意見を言ってほしい」と言いながら、反対意見を言った人が冷遇される。「責任を持て」と言いながら、問題が起これば上司自身は姿を消す。
人は、言葉よりもそうした行動を見ている。
反対に、自分の間違いを認める。約束したことを守る。部下の成果を本人のものとして認める。問題が起きたときには自分が前に出る。耳の痛い意見であっても、内容に意味があれば聞く。
人格は、大げさな道徳的行為にだけ現れるものではない。むしろ、こうした日々の小さな選択に表れるのだと思う。
私は真摯さを、言っていることと、実際にしていることのあいだにある距離の小ささとして捉えてみたい。
理念は立派でも、行動が逆なら、人はやがて理念を信じなくなる。反対に、華やかな言葉を使わなくても、行動が一貫していれば、人はそこに何かを感じ取る。
人格は、生まれつきなのか
ここで一つ難しい問題が出てくる。
ドラッカーは、真摯さについて非常に厳しい。真摯さは後から習得できるものではなく、仕事に就いたときに持っていなければならない、とまで述べている。
私は、この言葉を文字どおり受け取ることには少しためらいがある。
人は本当に変わらないのだろうか。
失敗して、自分の傲慢さに気づくことがある。他人を傷つけて、初めて自分の未熟さを知ることもある。責任を引き受けた経験によって、それまで見えていなかったものが見えるようになることもある。長い人生の中で、人がまったく成長しないとは私には思えない。
ただし、ドラッカーの言葉には別の意味があるようにも思う。
真摯さは、マネジメント研修で覚える「技法」ではないということである。
「部下を信頼しているように見せる方法」を覚えても、本当に人を信頼していることにはならない。「謙虚なリーダーの話し方」を身につけても、自分のエゴより組織の目的を優先できるとは限らない。
人格は、演技することはできても、演技し続けることは難しい。
だからこそ、人格を外から教え込むことと、その人自身が経験と内省を通じて人格を育てていくことは、分けて考えなければならないのだろう。
人格だけで、組織は変わるのか
では、人格の優れた人さえいれば、よい組織ができるのだろうか。
もちろん、そんなに単純ではない。
どれほど真摯な人であっても、情報が与えられず、権限がなく、誤った評価制度の中に置かれれば、できることには限界がある。悪い仕組みは人の行動を歪めるし、悪い文化は善意の人を疲弊させる。これまで考えてきたように、人が力を発揮するためには、仕事の設計やマネジメントも必要である。
だから、組織の問題をすべて「人間性の問題」にしてしまうのも間違っている。
しかし、制度だけですべてが決まるわけでもない。
制度をつくるのも人である。制度を運用するのも人である。誰を評価し、誰を昇進させ、どの行動を許し、どの行動を許さないのかを決めるのも人である。同じ制度があっても、運用する人によって組織の空気が変わることはある。
人格か、制度か。
おそらく、この二者択一ではない。
人の在り方がマネジメントに現れ、マネジメントが組織の環境をつくる。そして、その環境がまた、そこで働く人の行動に影響を与える。人格と組織は、一方向ではなく、互いに作用し合っている。
だからこそ、人格だけでも足りない。制度だけでも足りない。
人格とは、何を選び続けるかである
ここまで考えると、少なくとも私が「人格」という言葉で考えたいものは、少し見えてくる。
人格とは、単に「いい人」であることではない。性格が穏やかであることでも、欠点がないことでもない。
自由をどのように使うのか。何に責任を負うのか。他者をどう扱うのか。自分の利益と果たすべき目的が衝突したとき、どちらを選ぶのか。間違ったときに、それを認めることができるのか。
そうした選択の積み重ねとして現れる、その人の在り方。
私は、人格をそのように捉えたい。
人格はリーダーシップに現れる。そしてリーダーシップは、マネジメントを通じて組織の中に現れる。そう考えれば、一人の人間がどう在るかという問題は、その人一人だけの問題ではなくなる。
しかし、ここでもう一つ、大きな問いが残る。
もし人格が生まれつき決まっているものではなく、人の経験や選択の中で形づくられていくものだとすれば、それはどのように育つのだろうか。
家庭なのか。学校なのか。仕事なのか。失敗なのか。他者との出会いなのか。それとも、自分自身で考え続けることなのか。
人格を考えていたはずが、今度は「人はどう育つのか」という問いに行き着いた。
次に考えたいのは、人格は育てられるのか、ということである。
この記事の問いを、自分の問題として考えてみませんか。
Socrackerは、少数の問いとマネジメントの視点から、あなた自身が考え、判断するための材料を返す対話型AIです。
参考文献
P.F.ドラッカー『現代の経営[上]』上田惇生訳、ダイヤモンド社、2006年。
ジム・コリンズ、ビル・ラジアー『ビジョナリー・カンパニーZERO――ゼロから事業を生み出し、偉大で永続的な企業になる』土方奈美訳、日経BP、2021年。
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