同じ教育を、すべての人に与えるべきなのか

――共通の土台と、一人ひとりの違いのあいだ

 前回の「教育は、何のためにあるのか」では、教育とは、人が自由に生きるために、世界を知り、自分で考え、自分で選び、その選択に責任を持てるようになるための営みではないか、と考えた。

 その最後に、一つの問いが残った。すべての人に共通して必要な知識や経験はある。一方で、人にはそれぞれ異なる関心があり、異なる強みがあり、学び方にも違いがある。では、何を共通して学び、どこから本人の選択に委ねるべきなのだろうか。

 考えてみれば、これは教育にとってかなり根本的な問題である。同じ年齢の人が、同じ教室に集まり、同じ時間に、同じ教科書を使い、同じ内容を学び、同じ試験を受ける。私たちは、そのような教育に慣れている。

 そこには、もちろん理由がある。社会で生きるために必要な知識を、家庭環境などに左右されず、すべての人に届けることには大きな意味がある。

 しかし、人が違うのだとすれば、同じ教育を与えることは、本当に公平なのだろうか。

同じように教えることは、公平なのか

 同じものを、すべての人に同じように与える。一見すると、これほど公平な方法はないように思える。同じ授業を受け、同じ時間を与えられ、同じ問題を解き、同じ基準で評価される。特定の人だけを特別扱いしないという意味では、確かに公平である。

 だが、教室にいる人間は同じではない。すぐに理解できる人もいれば、時間をかけて考えることで理解する人もいる。文章から理解しやすい人もいれば、実際に手を動かすことで腑に落ちる人もいる。数学に強く惹かれる人もいれば、歴史の中に人間の面白さを見つける人もいる。

 既に知っていることを何度も教えられれば、退屈する。一方で、まだ十分に理解していないのに授業だけが先へ進めば、やがて何を学んでいるのかさえわからなくなる。どちらにも同じ授業が提供されている。しかし、同じものを与えることと、同じように学べることは、同じではない。

 「人は、なぜある仕事には夢中になるのか」で考えたフローの問題も、ここに関係している。本人の力に対して課題が簡単すぎれば退屈し、難しすぎれば不安が大きくなる。同じ難易度の課題であっても、それを受け取る側の状態によって、経験はまったく違う。

 だとすれば、教育の公平さを「同じものを与えたか」だけで考えることには限界がある。

違いに合わせれば、それでよいのか

 では、一人ひとりに合わせて、完全に別々の教育をすればよいのだろうか。話はそれほど簡単ではない。

 本人が好きなことだけを学べばよいとすれば、まだ知らない世界に出会う機会を失うことがある。子どもの頃に歴史に興味がなかったからといって、歴史を知らなくてよいとは限らない。数学が苦手だからといって、数によって物事を考える力が不要になるわけでもない。文学に関心がない人でも、他者の人生を想像する経験から学ぶものはある。

 そもそも、自分が何に興味を持つのかは、出会ってみなければわからない。知らないものを、自由に選ぶことはできないからである。

 さらに、「あなたはこれが得意な人」「あなたはこれが苦手な人」と早くから分類することにも危険がある。強みを尊重しているつもりが、本人の可能性を狭めることがあるからだ。

 「数学が苦手だから、こちらへ行きなさい」「文章が得意だから、理系には向いていない」「人前で話すのが苦手だから、リーダーには向いていない」。こうした判断が、その時点では正しく見えることもある。しかし、人は経験によって変わる。できなかったことができるようになることもあれば、思いもしなかったことに夢中になることもある。

 違いを尊重することと、可能性を決めてしまうことは違う。

共通の土台は、人を同じにするためではない

 ここで、前回考えたリベラルアーツに戻ってみたい。私は、リベラルアーツを「自由に生きるための術」と捉えている。

 自由に生きるためには、選択肢を知らなければならない。そのためには、自分の身の回りだけでなく、もっと広い世界を知る必要がある。読み書きができれば、他者の考えに触れることができる。数学を学べば、感覚だけでは捉えにくい世界を数量によって考えることができる。歴史を学べば、現在の社会が唯一の形ではないことを知る。自然科学を学べば、思い込みではなく、観察し、仮説を立て、確かめるという方法を身につけられる。文学や哲学に触れれば、自分とは異なる人生や価値観から、自分自身を見直すことができる。

 だとすれば、すべての人が共通して学ぶものには意味がある。ただし、その目的は、すべての人を同じように考える人間へ育てることではない。むしろ、共通の知識を持つからこそ、それを材料にして異なる問いを立てることができる。同じ歴史を学んでも、そこから何を考えるかは人によって違ってよい。同じ科学を学んでも、どの問題に関心を持つかは違ってよい。

 共通教育の目的は、同じ答えを持つ人間をつくることではない。違う答えを自分で考えるために必要な土台を、すべての人に渡すことなのだと思う。

 共通の土台と多様性は対立しない。むしろ、共通の土台があるからこそ、違いを持った人間同士が対話できる。

選べることは、学ぶことなのか

 その土台の上で、どこまで本人に選ばせるのか。ここで、自律性の問題が出てくる。

 エドワード・デシとリチャード・フラストは、人を育てる側が自律性を支援することを重視している。自律性を支えるとは、好き勝手にさせることではない。必要な制限がある場合にはその理由を伝え、その範囲の中でも本人が意思決定に参加し、選べる余地をつくることである。

 この考えを教育に置けば、選択は学習の外側にあるご褒美ではなく、学習そのものの一部になる。何を学ぶかのすべてを自由にする必要はない。同じ歴史を学びながら、自分がさらに調べたい問いを選ぶことはできる。同じ科学の基礎を学びながら、どの現象を実験してみるかを選ぶことはできる。同じ文章を書くとしても、自分が本当に考えてみたい題材を選ぶことができる。

 選べば、結果が返ってくる。うまくいくこともあれば、失敗することもある。思っていたほど面白くないと気づくこともある。逆に、何となく選んだものに夢中になることもある。その経験によって、自分のことも少しずつわかってくる。

 何を選ぶかを学ぶには、実際に選んでみるしかない。

強みは、いつ見つかるのか

 これは、「強みとは、得意なことなのか」で考えた問題にもつながっている。私はそこで、強みとは単独で人の中に固定されているものではなく、その人と仕事、環境、周囲の人、求められていることとの関係の中で現れるのではないか、と考えた。

 だとすれば、教育においても、最初から「あなたの強みはこれです」と決めることには無理がある。強みは、試してみる中で見えてくる。

 読む。書く。計算する。つくる。話す。調べる。観察する。人と協力する。一人で考える。失敗する。もう一度やってみる。さまざまな経験をするからこそ、「なぜかこれは苦にならない」「もっとやってみたい」「人より早くできる」「人からよく頼まれる」といった自分の特徴に気づく。

 ドラッカーは、人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることだと考えた。これは本来、組織のマネジメントについての議論である。しかし、教育について考えるときにも重要な示唆がある。

 教育が人の弱みを見つけ、それを矯正することばかりに時間を使えば、その人がどこで大きな力を発揮できるのかを見失うことがある。だからといって、弱みを放置すればよいわけではない。読み書きや計算など、その後の自由を支える基礎が不足しているなら、支える必要がある。

 弱みを放置しないことと、弱みだけで人を見ないこと。この二つは両立する。

個別化とは、簡単にすることなのか

 一人ひとりに合わせる教育というと、できない人には簡単な問題を与え、できる人には難しい問題を与えることを思い浮かべることがある。それも一つの方法ではある。しかし、本質は難易度を下げることではないと思う。

 人が成長するためには、自分の現在の力より少し先にあるものへ手を伸ばす必要がある。簡単すぎれば、力は使われない。難しすぎれば、何から手をつけてよいのかわからなくなる。フローを考えたときにも、挑戦と能力の関係は重要だった。

 個別化とは、要求水準をなくすことではない。その人が今いる場所から、次の一歩を踏み出せる課題を用意することである。

 一人には簡単な課題でも、別の人には大きな挑戦になる。同じ人であっても、半年後には違う。だから教育する側は、決められた内容をただ渡すだけではなく、目の前の人がどこにいるのかを見なければならない。

 これは、かなりマネジメントに近い仕事である。仕事でも、すべての社員にまったく同じ仕事を与えれば公平になるわけではない。何を目指すのかという共通の目的は必要だが、そこへ至る役割や方法まで同じである必要はない。

 人を見るとは、違いを見ることである。

同じ入口と、違う道

 では、最初の問いに戻ろう。同じ教育を、すべての人に与えるべきなのだろうか。

 私は、「すべて同じ」でも、「すべて別々」でもないと考える。すべての人に保障すべき共通の土台がある。一方で、その土台の上をどう進むのかには、本人の関心や強み、成長の段階に応じた違いがあってよい。

 読み書き、数学、科学、歴史、社会について学ぶ。自分とは異なる人間や時代の考えに触れる。他者とともに生きるためのルールを知る。こうした共通の学びは、自分で生き方を選ぶための足場になる。

 しかし、その足場の上から、全員を同じ方向へ歩かせる必要はない。ある人は科学へ進む。ある人は芸術へ進む。ある人はものをつくる。ある人は人を支える。ある人はまだ、自分が何に向いているのかわからない。それでもよい。

 教育が保障すべきなのは、最初から正しい道を選ぶことではなく、出会い、試し、失敗し、考え直し、また選ぶことのできる余地ではないだろうか。

 共通の教育は、共通の入口であってもよい。

 しかし、共通の出口である必要はない。

 同じ場所から学び始めた人たちが、それぞれ違う方向へ歩き出し、それぞれの強みを社会の中で使えるようになる。その方が、社会全体としても豊かになると私は考える。

教育は、人の違いをどう扱うのか

 教育において、人の違いは解消すべき問題なのだろうか。私は、そうは思わない。

 もちろん、家庭環境や経済状況によって学ぶ機会そのものが大きく損なわれるのであれば、それは別の問題である。しかし、関心、強み、ものの見方、考える速度まで同じにする必要はない。

 違いがあることを前提にしながら、自由に生きるために必要な共通の土台を保障する。そして、その上で、自分で考え、自分で選び、試しながら、自分にしかできない力の使い方を見つけていく。私は、そこに教育の一つの姿があると考えている。

 人を同じにすることが、教育なのではない。

 違う人間が、それぞれ自分の力を使いながら、ともに社会をつくっていけるようにすること。

 そう考えると、もう一つ避けられない問いが出てくる。共通して学ぶべきものを、誰が決めるのか。

 国家なのか。学校なのか。教師なのか。家庭なのか。それとも、本人なのか。

 共通の土台を社会として保障しようとすれば、どこかで誰かがその内容を決めなければならない。しかし、その力が強くなりすぎれば、教育は再び、人を一つの型へ当てはめる装置にもなり得る。

 次に考えたいのは、「教育は、誰が決めるのか」という問いである。

この記事の問いを、自分の問題として考えてみませんか。

Socrackerは、少数の問いとマネジメントの視点から、あなた自身が考え、判断するための材料を返す対話型AIです。

参考文献

P.F.ドラッカー『マネジメント【エッセンシャル版】―基本と原則』上田惇生編訳、ダイヤモンド社。

M.チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』今村浩明訳、世界思想社、1996年。

エドワード・L・デシ、リチャード・フラスト『人を伸ばす力――内発と自立のすすめ』桜井茂男監訳、新曜社、1999年。

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