国家には、ビジョンが必要なのか

――未来を決めることと、進む方向を共有することのあいだ

 前回の「国家の成果とは、何か」では、国家の成果を一つの数字だけで捉えることには無理がある、と考えた。経済も、安全も、教育も、健康も重要である。しかし、それらが何のために必要なのかを考えていけば、最後には、人が自分で考え、自分で選び、自分の力を社会の成果へ結びつけられるかという問題に行き着く。

 そこで、一つの問題が残った。何を成果とするかを決めるためには、どのような社会を目指すのかという未来の姿が必要になる。企業であれば、どのような顧客に、どのような価値を提供するのかを考える。学校であれば、何を教えるのか以前に、何のために教育するのかを考える。目的がなければ、何が成果なのかも決められない。

 では、国家にも同じように、ビジョンが必要なのだろうか。

目の前の問題を解決するだけでは、なぜ足りないのか

 国家には、次々と問題が起こる。災害が起きれば対応しなければならない。経済が悪化すれば対策が求められる。社会保障、教育、医療、安全保障、社会の基盤となる施設など、放っておくことのできない問題はいくらでもある。それらを一つずつ解決することは、もちろん必要である。

 しかし、目の前の問題への対応を積み重ねるだけで、社会は望ましい方向へ進んでいくのだろうか。

 人口が減る。では、人口を増やす政策を考える。地方が衰退する。では、地方を支援する。企業の競争力が低下する。では、企業を支援する。教育に問題がある。では、制度を変える。それぞれの政策には、それぞれの合理性がある。しかし、一つひとつの問題だけを見ていると、それらの先にどのような社会をつくろうとしているのかが見えなくなる。

 会社でも同じである。売上が落ちたから販売を強化する。コストが上がったから削減する。人が辞めるから採用を増やす。目の前の問題には対応している。それでも、会社がどこへ向かっているのかは誰にもわからない。そんな組織はあり得る。

 問題を解決することと、未来をつくることは同じではない。

ビジョンとは、目標の数字なのか

 では、ビジョンとは何だろう。経済成長率を何%にする。出生率をいくつにする。研究開発へいくら投資する。ある年までに特定の目標を達成する。こうした数字は必要である。しかし、私はそれをビジョンそのものとは考えない。

 数字は、どこまで進んだのかを確かめるためのものである。「GDPを増やす」だけでは、なぜ増やすのかがわからない。「出生率を上げる」だけでは、なぜ子どもが生まれ育つ社会を望むのかが見えない。「科学技術を強くする」だけでは、その技術によってどのような社会をつくりたいのかがわからない。

 ジム・コリンズとジェリー・ポラスは『ビジョナリー・カンパニー』で、ビジョンを単なる数値目標とは捉えていない。そこには、組織が何を大切にするのかという価値観があり、何のために存在するのかという存在意義があり、そのうえで具体的に目指すものがある。

 この区別は、国家を考えるときにも示唆的である。

 政策目標は変わる。人口も、技術も、国際環境も変わる。しかし、どのような社会でありたいのかという根本まで、目の前の状況に応じて毎回変わってよいわけではない。

 ビジョンとは、単に「何を達成するか」ではない。

 何を大切にしながら、どこへ向かうのかを示すものである。

しかし、国家が未来を決めてよいのか

 ここまでなら、国家にもビジョンが必要だという結論へ簡単に進めそうに見える。

 しかし、国家の場合には、企業以上に難しい問題がある。

 国家が「私たちはこの社会を目指す」と決めたとき、その未来像に同意しない人はどうなるのだろう。

 国家が望ましい働き方を決める。望ましい家族像を決める。望ましい生き方を決める。望ましい人格まで決める。そこまで進めば、ビジョンは社会の方向を示すものではなく、人を一つの型へ当てはめるものになる。

 これまで教育について考えたときにも、同じ問題があった。共通の土台は必要である。しかし、共通の出口まで決める必要はない。

 国家にも、同じ原則が成り立つのではないだろうか。

 国家が国民一人ひとりの人生の完成形を描くべきではない。

 ビジョンが必要であることと、未来を一つに決めることは違う。

ビジョンは、誰のものなのか

 ここで、『ビジョナリー・カンパニー』のもう一つの考え方が重要になる。

 コリンズとポラスが重視したのは、ビジョンにあふれた一人の英雄的なリーダーではなく、ビジョンに立脚した組織をつくることである。優れたリーダーがいなくなった途端に方向を失うのであれば、そのビジョンは組織のものになっていない。

 これは国家では、さらに重要な問題になる。

 政治を担う人は変わる。政権も変わる。世代も交代する。それでも国家は続いていく。

 一人の政治家のビジョンと、国家のビジョンを同じものにしてはならない。

 もちろん、リーダーには未来を語る役割がある。誰かが問題を言葉にし、進む方向を提案しなければ、議論そのものが始まらないこともある。しかし、提案することと、所有することは違う。

 国家のビジョンは、特定のリーダーの所有物ではない。

 社会に生きる人々が、世代を超えて問い続けるものでなければならない。

共有するとは、同じ考えになることなのか

 では、多様な人々が国家のビジョンを共有するとは、どういうことなのだろう。

 ピーター・センゲは『学習する組織』で、共有ビジョンを学習する組織に必要な重要な要素の一つとしている。そこで大切なのは、上から示された未来像に人を従わせることではない。人々が自分たちの望む未来と組織の未来とのつながりを見いだし、自ら行動することである。

 これは、この連載の最初から考えてきたマネジメントともつながる。

 人を動かすのではない。

 人が自ら動く理由を共有する。

 ただし、国家は企業よりはるかに多様である。同じ国に住んでいても、価値観も、宗教も、職業も、人生観も違う。すべての人が一つの未来像について同じ考えを持つことなどあり得ないし、そうする必要もない。

 だから、国家における「共有」は、全員が同じ意見になることではない。異なる考えを持ったままでも、「この社会のこの部分は守りたい」「この条件は次の世代にも残したい」と考えられるものを見つけることである。

何を共有し、何を自由にするのか

 ここで、教育について考えてきた「共通の土台と違う道」という考え方が、もう一度役に立つ。

 国家が共有すべきなのは、一人ひとりの人生ではない。人がそれぞれ異なる人生を生きることのできる社会の条件である。

 自由に考えられること。学びたい人が学べること。挑戦したい人が挑戦できること。失敗しても、もう一度やり直せること。異なる考えを持つ人同士が、暴力ではなく言葉によって意見を交わせること。そして、自分の強みを使って、他者や社会に貢献できること。

 そのような条件を、次の世代にも残していく。

 これなら、国家のビジョンと個人の自由は必ずしも対立しない。国家は「こう生きなさい」と一つの未来を示すのではなく、それぞれの人が自分の未来を選べる社会そのものを、どのように維持し、より良くしていくのかを考える。

 共通のビジョンは、多様性をなくすためにあるのではない。

 多様な人々が、同じ社会で生きていくためにある。

変えてはいけないものと、変え続けるもの

 もう一つ、『ビジョナリー・カンパニー』から考えたいことがある。

 コリンズとポラスは、基本理念を維持することと、進歩を促すことの両方を重視している。

 一見すると、これは矛盾する。変わらないのであれば進歩できない。変わり続けるのであれば、何を大切にする組織なのかわからなくなる。

 しかし、本当に区別すべきなのは、変えるか変えないかではない。

 何を変えず、何を変えるのかである。

 国家についても同じだと思う。人間の尊厳や自由を大切にするという根本的な原則まで、時代の流行によって簡単に変える必要はない。一方で、その原則を実現する制度や政策は、社会の変化に応じて変えなければならない。

 昔うまくいった方法を守ることと、大切な原則を守ることは同じではない。

 変えてはいけないものを守るために、変えなければならないものがある。

 ビジョンがあるからこそ、その区別ができる。

ビジョンは、完成するのか

 それでも、ビジョンを一度決めれば終わりではない。

 未来はわからない。

 ドラッカーは、マネジメントは現在と未来、短期と長期の双方を見なければならないと考えた。未来は現在とは違うものになる。しかし、その未知の未来へも、現在からしか進むことはできない。

 ビジョンとは、未来を予言することではない。

 どこへ向かいたいのかを考え、そこへ向かって行動し、現実から学びながら進み方を変えていくことである。

 技術が変わる。人口が変わる。世界が変わる。人々の価値観も変わる。そのたびに、社会は自分たちのビジョンを問い直す必要がある。

 方向を持つことと、答えを固定することは違う。

 むしろ、自分たちが掲げたビジョンさえ問い直すことのできる社会こそ、未来に対して開かれた社会なのだと思う。

国家には、ビジョンが必要なのか

 私は、国家にもビジョンが必要だと考える。

 目の前の問題だけを解決していても、社会がどこへ向かうのかは決まらない。何を成果とするのかを考えるためにも、限られた資源を何に使うのかを判断するためにも、何を大切にし、何を次の世代へ残したいのかという方向が必要になる。

 しかし、そのビジョンは、国家が国民に生き方を命じるためのものではない。

 多様な人々が、それぞれ異なる人生を生きながらも、どのような社会なら一緒に守り、育てていけるのか。その共通部分を言葉にするものである。

 国家のビジョンとは、一つの未来を選ぶことではない。

 多様な未来が生まれ得る社会を、どのようにつくるかを考えることである。

 だからビジョンは、単なるスローガンではない。政治家が掲げる美しい言葉だけでもない。国家が何を守り、何を変え、何に資源を使い、何を人々の自由に委ねるのかを考えるとき、その判断を支える基準になる。

 そして、どれほど優れたビジョンがあっても、それだけで社会は動かない。

 誰かが未来について語らなければならない。しかし、一人の英雄が未来を決めてはならない。人々の声を聞きながら方向を示し、共有された目的に向けて社会の力を結びつける役割が必要になる。

 ここで、再びリーダーシップの問題が現れる。

 次に考えたいのは、「国家を率いるとは、どういうことか」という問いである。

この記事の問いを、自分の問題として考えてみませんか。

Socrackerは、少数の問いとマネジメントの視点から、あなた自身が考え、判断するための材料を返す対話型AIです。

参考文献

P.F.ドラッカー『マネジメント【エッセンシャル版】―基本と原則』上田惇生編訳、ダイヤモンド社。

ジム・コリンズ、ジェリー・ポラス『ビジョナリー・カンパニー――時代を超える生存の原則』山岡洋一訳、日経BP。

ピーター・M・センゲ『学習する組織――システム思考で未来を創造する』枝廣淳子・小田理一郎・中小路佳代子訳、英治出版、2011年。

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