教育は、誰が決めるのか

――国家が決めることと、本人に委ねることのあいだ

 前回の「同じ教育を、すべての人に与えるべきなのか」では、すべての人に共通して保障すべき学びの土台はある一方、その土台の上をどう進むのかまで同じである必要はない、と考えた。

 共通の教育は、共通の入口であってもよい。しかし、共通の出口である必要はない。

 そう考えると、次の問題が出てくる。その「共通の入口」を、誰が決めるのだろうか。

 国語を学ぶ。数学を学ぶ。歴史を学ぶ。科学を学ぶ。学校へ行く年齢も、授業を受ける時間も、学ぶ内容も、私たち一人ひとりが最初から決めたわけではない。社会が一定の仕組みをつくり、その中で私たちは教育を受けてきた。

 では、国家が教育に関わることは、人の自由を制限することなのだろうか。それとも、何を学ぶかを本人や家庭に任せる方が自由なのだろうか。

 私は、そのどちらか一方ではないと考えている。

国家が教育に関わるのは、なぜか

 もし、何をどこまで学ぶかをすべて家庭に委ねたら、どうなるだろう。教育に多くの時間やお金を使える家庭もあれば、そうではない家庭もある。親が幅広い知識を持っている家庭もあれば、そうではない家庭もある。住む場所によって、出会える人や利用できる施設にも差がある。

 しかし、子どもは自分が生まれる家庭を選ぶことができない。

 だからこそ、読み書きや計算、社会や自然についての基礎的な知識を、家庭環境にかかわらず学ぶことのできる仕組みには意味がある。日本国憲法は教育を受ける権利を保障し、教育基本法も教育の機会均等を掲げている。義務教育については、国と地方公共団体に、その機会を保障し、一定の水準を確保する責任が置かれている。

 前回、私は「知らないものを、自由に選ぶことはできない」と書いた。だとすれば、自由に選べるようになるためには、本人がまだ知らない世界に触れる機会そのものを保障する必要がある。

 教育の機会を保障することは、自由の反対ではない。自由の前提を整えることでもある。

では、国家はどこまで決めてよいのか

 しかし、国家が教育の機会を保障することに意味があるからといって、国家が教育のすべてを決めてよいことにはならない。

 何を学ぶのかを決めること自体、まったく価値中立な行為ではない。歴史のどの時代を詳しく学ぶのか。どの文学作品に触れるのか。社会のどの問題を取り上げるのか。限られた時間の中で何かを選べば、何かは選ばれない。

 さらに、国家が「何を知るべきか」だけでなく、「何を正しいと考えるべきか」「どのような人間になるべきか」まで一つの答えとして決め始めれば、教育の意味は変わる。

 これは「人格は、育てられるのか」で考えた問題と同じである。誰かが望ましい人格の完成形を決め、その型へ人を当てはめていくのであれば、それは人格形成というより、統制に近づいていく。

 共通の土台がなければ、生まれた環境によって自由に生きるための条件に大きな差が生まれる。しかし、共通の土台をつくる力が強くなりすぎれば、その力が、人の考え方まで揃えるために使われる危険がある。

 国家は教育から退けばよいわけではない。

 しかし、国家が教育を支配してもならない。

「何を教えるか」と「何を信じるか」

 この境界を考えるうえで、教育基本法の政治と宗教に関する規定は興味深い。

 政治については、良識ある公民として必要な政治的教養を教育上尊重する一方、学校が特定の政党を支持したり、反対したりするための教育には線を引いている。宗教についても、宗教に関する一般的な教養や寛容の態度を尊重しながら、国や地方公共団体が設置する学校が特定の宗教のための教育を行うことは認めていない。

 ここには一つの重要な違いがある。

 政治を知ることと、特定の政治的立場を選ばされることは違う。宗教について知ることと、特定の信仰を持つよう求められることも違う。

 むしろ、知らないことが自由なのではない。世界にはどのような思想があり、異なる社会がどのような選択をしてきたのかを知る。宗教が歴史や文化、人間の生き方にどのような影響を与えてきたのかを知る。複数の考え方を知ったうえで、自分はどう考えるのかを選べることの方が、自由に近い。

 ここでも、リベラルアーツへ戻ってくる。

 私は、リベラルアーツを「自由に生きるための術」と捉えている。

 国家が保障すべきなのは、一つの答えではない。自分で答えを考えるために、必要な世界に触れられることである。

誰か一人が決めるものなのか

 では、国家がすべてを決めないとすれば、誰が決めるのだろう。

 日本の学習指導要領は、全国どこで教育を受けても一定の水準を保つための教育課程の基準として定められている。一方で、実際の教育課程は、その基準を踏まえながら、地域や学校の実態に応じて各学校が編成する。

 つまり、「国家か学校か」という二者択一ではない。国家が共通の基準を持ち、地域や学校が具体化するという役割分担が既に存在している。

 さらに教育基本法は、保護者が子の教育について第一義的な責任を持つとし、学校、家庭、地域住民などが、それぞれの役割と責任を自覚しながら連携することを求めている。

 私は、この構造に一つの原則を見る。

 教育は、誰か一人がすべて決めるものではない。

 国家には、誰もが学べる機会と共通の土台を保障する役割がある。学校には、その土台を目の前の子どもたちや地域の実情に合わせて教育へ変える役割がある。教師には、一人ひとりの理解や関心を見ながら学びを支える役割がある。家庭や地域にも、学校だけではつくれない経験や関係を支える役割がある。

 そして、そこにはもう一人、最も重要な当事者がいる。

 学ぶ本人である。

決める主体を、本人へ返していく

 子どもに、最初からすべてを決めさせればよいわけではない。危険なことを知らなければ教える必要がある。読み書きや計算の意味がまだわからなくても、後の人生を支える基礎として学ぶ必要があることもある。

 しかし、だからといって、成長しても周囲がすべてを決め続けてよいことにはならない。

 エドワード・デシとリチャード・フラストは、人が自律的に行動するためには、本人の意思や選択を尊重する環境が重要であると論じている。自律性を支えるとは、好き勝手にさせることではない。必要な枠組みを示しながらも、その中に本人が考え、選び、行動する余地を残すことである。

 「自由にすれば、人は本当に自ら動くのか」で考えたように、自由と放任は同じではない。

 教育でも同じだと思う。最初は大人が大きな責任を引き受ける。しかし、本人が考えられるようになるにつれて、選べる範囲を広げていく。選ばせるだけではなく、その結果について一緒に考える。そして、少しずつ本人が自分の判断を引き受けられるようにする。

 教育する側がすべてを決め続けていたら、自分で決められる人は育ちにくい。

 どこかで、決める主体を本人へ返していかなければならない。

教育を、マネジメントとして考える

 ここまで考えてくると、この問題もまたマネジメントの問題に見えてくる。

 ドラッカーは、組織は目的ではなく手段であると考えた。学校についても同じことが言えるのではないだろうか。学校という制度を維持することが教育の目的ではない。学習指導要領に書かれた内容をすべて終えること自体が目的でもない。試験を実施し、進学させることだけが成果でもない。

 問うべきなのは、その教育によって、人がどう育ったかである。

 自分で考えられるか。知らないことを学び続けられるか。異なる考えを持つ人と対話できるか。自分で選び、その結果に責任を持てるか。そして、自分の強みを使って、誰かの役に立つことができるか。

 そこを目的とするなら、教育をマネジメントすることは、すべてを細かく統制することではなくなる。目的を明確にする。共通して必要な土台を保障する。しかし、その土台の上で何を問い、どのような方法で学び、どの道へ進むのかには、現場と本人の判断を残していく。

 国家が保障すべきなのは、人間の完成形ではない。

 人が自分自身を形成していくための条件である。

教育は、誰が決めるのか

 最初の問いに戻ろう。

 教育は、誰が決めるのだろうか。

 私は、「国家が決める」でも、「家庭が決める」でも、「教師が決める」でも、「本人がすべて決める」でもないと考える。それぞれが、異なる役割と責任を持つ。

 国家は、誰もが学べる機会と共通の土台を保障する。学校と教師は、その土台を現実の人間に合わせて教育へ変える。家庭や地域は、学校だけではつくれない経験と関係を支える。そして本人は、成長するにつれて、自分の問い、自分の強み、自分の生き方について、自分で選ぶ責任を引き受けていく。

 教育とは、一人の人間を誰かの理想どおりにつくることではない。

 その人が、やがて自分の人生を自分で引き受けられるところまで支えることなのだと思う。

 国家は、本人に代わって自由を選ぶことはできない。しかし、人が自由に選べる条件をつくることはできる。

 そう考えると、教育について考えていたはずの問いが、教育の外へ広がっていく。

 国家は、個人が自由に生きるために、どこまで共通の条件を整えるべきなのか。そして、どこから先を個人に委ねるべきなのか。

 これは、教育だけの問題ではない。

 国家そのものの役割を問う問題である。

 次に考えたいのは、「国家は、何のためにあるのか」という問いである。

この記事の問いを、自分の問題として考えてみませんか。

Socrackerは、少数の問いとマネジメントの視点から、あなた自身が考え、判断するための材料を返す対話型AIです。

参考文献

日本国憲法。

教育基本法(平成18年法律第120号)。

文部科学省「『学習指導要領』とは?」。

P.F.ドラッカー『マネジメント【エッセンシャル版】―基本と原則』上田惇生編訳、ダイヤモンド社。

エドワード・L・デシ、リチャード・フラスト『人を伸ばす力――内発と自立のすすめ』桜井茂男監訳、新曜社、1999年。

Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です